すべてと無とはじまりと終わりについての話(3)
ぼくがいった後も、ぼくたちはしばらく抱き合っていた。女の子が本当にオーガズムに達しているのかどうか、ぼくにはわからない。あまりに多くの要素がそこにありすぎる。男に比べたら1+1=2の足し算とフェルマーの最終定理ぐらい違う。いや、それはある意味では違いがないのかもしれない。どっちがより難解だと誰に言えるだろう。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学を比べるようなものだ。それは星のように遠くにあるのだ。
しるしのように短いキスを何度かして、そのあと深くキスをした。ぼくは裸のまま起き上がり、コートのポケットからマリファナ煙草を取り出し、火をつけて深く吸った。ユカリは少し顔をしかめた。部屋にマリファナの匂いが充満し、ユカリは洗ってたたんでおいたぼくのTシャツを着て、少し窓を開けた。冬の空気の匂いがした。きっと外にはもうオリオン座と冬の大三角形が見えているはずだ。それが正しい世界なんだから。
ユカリはしばらくぼくを眺めていたが、やがてちょっとした決意を決めたようにぼくに手を伸ばしてきた。ぼくは黙ってマリファナを渡した。おそらく彼女にとっては初めての体験のはずだ。だがまあどうってことはない。ただのマリファナだ。慣れないうちは少し気持ちが悪くなるかもしれないが、そう強いものではないし、悪くないマリファナだから心配ないだろう。
「はじめは少しづつ。」「リラックスしてゆっくり吸いなよ。」とぼくは言った。
ユカリは軽くそれを吸い。ゆっくり肺に落としてぼくに返してきた。ぼくはそれを受け取り、また吸い始めた。
「こういうの持ち歩いてたら駄目じゃない。」ユカリは言った。それほど怒っているわけではない。「駄目じゃない。」と言っているだけだ。
「入っているのを忘れてたんだ。」「急いでいたから。」「それに、窓を開けたらかえってまずいような気がするんだけどさ。」とぼくは言った。
ユカリははっとして窓を閉めた。ぼくは冷えた部屋を温めるために暖房を強くした。部屋を間接照明にし、部屋に何個かあった蝋燭を適当に配置し、火をつけた。そしてまたユカリにマリファナを渡した。ユカリはそれを受け取り、またゆっくりと吸った。ゆっくりと。
「気分は悪くない?」とぼくは聞いた。「大丈夫。」とユカリは言った。
「こういう物なの?」「ただ苦い香りがするだけのような気がするけど。嫌な香りじゃないけど。」
「少し酔っているんじゃないかな。」「まあでもそんなもんだよ。」ぼくは言った。そしてコートからもう一本出して火をつけた。ぼくは少しラリってきていた。
アルコールとセックスと射精のあとの、そして少し混じりこんできた冬の空気の匂い。それにマリファナが膜を貼るように粘り付き、心地良い酩酊の中に入り込もうとしていた。世界は終わろうとしているのだ、さっき始まって、今終わろうと。宇宙はそれを黙って受け入れている。世界が終わったあとに宇宙はあるのだろうか、それはただの深い深い闇のようなものではないのか、そしてぼくは終わった世界で、その闇にある意味では優しく包まれながら、世界と同様に無に帰していくことだろう。
「少し気持ちが変になってきた。」とユカリが言った。
ぼくは気を取り直し、「大丈夫だよ。リラックスしていればいい。それは悪いものじゃない。気持ちをそのまま受け入れるようにするんだ。ゆったりと、ただ自然に。」ぼくはユカリの座っていたベッドに行き、毛布をとって一緒にくるまった。ユカリはぼくに寄り添ってきた、少し息が荒くなっている。ぼくはほとんど残っていないマリファナを彼女からとって、最後に深く吸い、ビールの空き缶に捨てた。
「大丈夫。ゆっくりだ。ゆっくり。ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐くんだ。そしてリラックスする。僕はここにいる。」
彼女の息遣いは落ち着いてきた。「変な気分。」「目眩がするような、でも違うような。」「それでいいんだ、その世界をそのまま受け入れればいい。」「変な気分だけど、でも変じゃないかもしれない。」「上出来だ。ゆっくりしていればいい。」
ユカリはぼくの持っていいるマリファナをゆっくり取ってゆっくりもう一度吸った。ぼくももう一度吸った。それをもう一度回して、マリファナは終わった。ぼくは最後を吸って、ビールの缶に捨てた。
僕たちはまたベッドに横たわり、優しく抱き合っていた。
ぼくのTシャツを通して彼女の酩酊が伝わってきた。ユカリは深くまどろんでいた。ぼくもまた優しいまどろみの中にいた。彼女にそれが伝わっていればいいのにとぼくは思った。
「ねえ。」「あんたは優しい?」とユカリは聞いた。
「うん。」「そして強くあろうとしている。」とぼくは言った。
「そうだね。」
星が僕らを照らしていた。ぼくの部屋の中で、見えない星が。
ぼくが酩酊から覚めて、喉の渇きを感じ、飲み物を飲もうと起き上がったとき、ユカリはもう目を覚まして、ぼんやりと僕を見ていた。「なんか可愛かったよ。」と彼女は言った。
ぼくはミネラルウォーターを飲み、時計を見た。午前1時半。
「泊まっていってもいい?」と礼儀正しく彼女は聞いた。彼女は実家で、大学に入ってからはそれほど親はうるさくないようだ。彼女のことを尊重し、信頼しているのだろう。彼女はそれに足る人間だったから。
「もちろん。」とぼくは言った。もちろん初めてではないし、ぼくの部屋には彼女が泊まるためのいろいろな用品がそろっていた。安物ではあるけど下着もあった。
「顔を洗わなくちゃ。」とユカリは言った。「少し疲れたけどシャワーを浴びる。」
ぼくは頷いた。
「一緒に入る?」ユカリは言った。「んー。」とぼくが言うと、黙って手をとって浴室まで連れて行かれた。
シャワーを浴びて、一緒に化粧水とか、ボディクリームを塗り、ドライヤーで髪を乾かした。ぼくはまだ残っていたビールを飲み、彼女はミネラルウォーターを飲んでいた。
「ところで明日は何をするんだろう?」とぼくは聞いた。
「姿見を買いに行こう。」と彼女が言った。「無いと不便でしょう? あたしも不便だし、お洒落なのに。」
「べつにお洒落じゃないよ、気に入ったものを気に入ったように着るのが好きなだけだよ。」とぼくは言った。
「それをお洒落っていうんじゃないの?」とユカリは言った。
そうなのかな。とぼくは思った。ぼくにとってお洒落というものは、なにか思想とか、ライフ・スタイルとかそういうものを確立し、それとともにあるようなもののように思っているからだ、そしてぼくには今のところそういうものはない。
「まあそうかな。まあ確かに姿見はあったほうがいい。置き場所がないけど。」とぼくは言った。ぼくの部屋はキッチン付きの6畳間で、それにかろうじてトイレと浴室が付いているようなものだった。
ユカリは呆れたように言った「ちょっと片付ければ済むじゃない。」「必要なときだけだしてもいいし。とにかく必要だよ。」
「うん。」「ユカリがそう言うんなら必要なんだろうな。」ぼくは言った。「じゃあ買いに行こう、でも姿見なんて駅前で買えるよ。1時間もかからない。」
「あたしといるのが嫌なの?」とユカリはむっとした表情を作って言った。その奥にはじゃれたような微笑があった。「新宿に行こう。クリスマスもあるし、プレゼントを考えるのにもいいし。」
「別におれはクリスチャンじゃないんだけどな。」「信仰心もないし、死んだら多分仏葬されるだろうなってだけ。」とぼくは言った。無駄だとわかっていながら。
「誰にとってもクリスマスはクリスマスなの。」とユカリはきっぱりと言った。「プレゼントを考えておいて。」
ぼくの? 君の? とぼくは思ったが、黙っていた。
「もう寝よう。遅いし。それを飲み終わったら歯を磨いてきて。」とユカリは言った。
ビールは四分の一ほど残っていた。ぼくはそれを飲んで浴室についている洗面所に行き歯を磨いて戻ってきた。ユカリはベッドを綺麗にセットしていて、ぼくに軽くキスして、手で口元に少し残っていた歯磨き粉を拭いてくれた。
「寝よう。」と彼女は言った。僕たちはベッドに入って電気を消した。
少しマリファナが吸いたかった。
ぼくの? 君の?
11時頃僕は目を覚ました。ユカリはすでに起きていて、コーヒーを飲んでいた。僕が起きたのに気づくと、新しいコーヒーをいれにキッチンに行った。ぼくはとりあえずベッド脇にあったミネラルウォーターの残りを飲んだ。
しばらくしてからユカリはコーヒーを持ってぼくに渡し、「おはよう。」と言った。
「おはよ。」と言ってぼくはコーヒーを受け取った。まだ眠い。「よく眠れた?」
「うん。」「あんたもよく寝てたよ。」とユカリは言った。
「うるさくなかったかな?」とぼくは聞いた。冗談だ。ぼくは割と静かに眠るほうだ。でもぼくはまだ眠かったのでそれは冗談に聞こえなかった。
「うん。」と言って、彼女はぼくにキスした。わかっているよ。というふうに。
熱いコーヒーを飲んで少し目が覚めてきた。「けっこう寝ちゃったな。」「何時頃起きたの? ベッドから出たときはちょっと目を覚ましたんだけど。」
「そうでもないよ。あたしもちょっと寝坊しちゃった。30分前ぐらいじゃいないかな。」ということは1時間ぐらい前なのだろう。テレビが小さな音でついていた。
顔を洗ってくるね。といってユカリはは浴室に行った。テレビにはNHKがついていて、各地方の状況をリポーターがリポートしていた。けっこうなことだ。日本は長いし、山もあれば海もある。星とは違うんだ。いろんなところがある。そしてリポーターはそれをリポートするのが仕事だ。
ユカリは顔を洗って戻ってきた。「いったん家に帰るね。」「1時に新宿で待ち合わせしよう。」「昨日の下着は洗濯機に入れておいたから洗っておいて。」彼女は言った。「寝ぐせが付いていているよ。シャワーを浴びたら?」
そう言うとユカリはメイクをし、身支度を始めた。ぼくはカーテンを少し開けて窓に自分の姿を映した。「わかった。一時に新宿。南口?」
「それでいい。」と彼女は言った。
ユカリは手早く身支度を整え、部屋を出ていこうとした。「プレゼントは考えた?」ユカリは言った。
「おれの? 君の?」とぼくは言った。
「あんたのに決まってるじゃない。あたしのは自分で考えるよ。」とユカリは言った。
「じゃあ後でね。」と言ってぼくの部屋を出て行った。
ぼくはあと二杯分のコーヒーを入れて、テレビを見てぼんやりしていた。
カーテンを開けて外の光を入れ、窓を開けた。天気は悪くなかった。冬のそれほど悪くない太陽の光だ。それは冬のそれほど悪くない太陽の光であることを僕の部屋に示していた。地球は一回転したのだ、おそらくそれに合わせて宇宙もしかるべく動き、地球の季節を少しずつ動かしているのだろう。
コーヒーをもう一杯飲み、シャワーを軽く浴びた。髭を剃り、歯を磨いた。
そして髪をドライヤーで乾かし、コーヒーの残りを飲みながら、部屋を少し片付け、着ていく服を選んだ。ジーンズ、長袖のTシャツ、シャツ、コート。
髪をセットし、気に食わなかったのでやはりニット帽をかぶった。そしてぼくも部屋を出た。
外は思っていたより寒かった。ぼくはマフラーを少し上げて駅に向かった。
駅構内のカフェでパンとコーヒーを選び食べた。時間にはまだ余裕がある。ぼくはカフェにいる人たちを眺め、駅を歩いて行く人たちを眺めた。そして時間と宇宙のことを思った。
みんな。みんな時間の中で生きているんだ、それはつまり宇宙のことだ。地球が太陽の周りを一周する。しながら地球は回り続ける。地球が一周することを一日とよび、それを24回に区切り、24回を60回に区切り、それをさらに60回に区切った。そして回り続けながら太陽の周りを一周することを一年とした。少しのずれはその都度直していくことにした。
でも、それとはべつに人は、自分は自分の時間というものを持っている。それは時間じゃないのかもしれない。ただ人生は有限だし、人は成長し、成長し終わるとやがて老いていく。地球も宇宙も関係なく。
コーヒーを飲み終わると時間になっていたので、ぼくは中央線に乗って新宿に向かった。
午後一時少し前に新宿に着いた。南口の、いつも待ち合わせをする場所のあたりにいて、セイコーの時計を見た。秒針は正確に1秒を刻んでいた。南口は控えめに言って、冷静に考えれば異常。というほどの人であふれかえっていた。
十分ほど経ってからユカリが肩を叩いた、「ごめん。待った?」彼女は白の比翼のシャツに黒のノープリーツのひざ丈のスカートを履いて深緑色のジャケットとチャコール・グレーのコートを着ていた。そして黒色調の模様がはいったストールを巻き、コートに近い色のロング・ブーツを履いていた。
「いや全然。」ぼくは言った。
「本当?」とユカリは言った。
「おれはそんなことでは嘘はつかない。待たされたなら待たされたと言うし、それが理不尽なら怒る。」とぼくは言った。
「強くて優しいから。」とユカリは言った。「そう。」なんだか昨日からのキー・ワードみたいだ、チャンドラーのそのセリフとはずれてきているような気がする。
気のせいだろうか。
とりあえず東急ハンズに行った、割といい感じの姿見があった。ぼくは部屋がどうだろうと別にそれほど気にするタイプではないが、それでも少しは統一性のようなものがあったほうがいいのは確かだ、「これがいいんじゃないかな。」とぼくは言った。「割にコンパクトだし、部屋の感じにも合う。たたむのも簡単そうだ。」
「いいね。」と彼女も言った。「これなら私もいい。」「でももうちょっと見てみよう。」
どちらにせよ、今それを買って新宿の街を歩いて回るのはありえない話だったからぼくはそれに同意した。それからタワー・レコードに行き、お互い興味のある音楽のある売り場に行って、見て回った。ぼくの音楽の趣味は一貫しておらず、あるとすればそれは「良い音楽であれば何でもいい」という点だった。好きなアーティストはいるし、それについては定期的に追ってはいたが、良い音楽というのは結局、時間の経過にさらされつつも輝きを失わず残っていく音楽ということになる。だから、ぼくははじめはあまり現代的とは言えないCDを見ていた、ローリング・ストーンズ、キンクス、フー、バディ・ホリー、ビーチ・ボーイズ、ボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリクス。マイルズ・デイビス、ビル・エヴァンズ。それからふと思いついて、新譜の売り場に行った、音楽はまた同時代的に存在しているものでもある。それにも優れた音楽がある、また優れていなくてもその時代を深くえぐりとるような作品もある。そういうものだって「良い音楽」と言えるのだ。
ぼくは新譜を視聴していた。その時ユカリが戻ってきて、ぼくの手をつないだ。彼女はレコード屋に何時間も居れるようなタイプではない。ぼくはヘッドフォンを外し、彼女と歩いた。「何かいいものはあった?」とぼくは聞いた。「うん。」「今度買うかも。」と彼女は言った。
ファッション・ビルを何件か周り、三越に行き、伊勢丹に行った。ひと通り回ったあとで喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。
「姿見はやっぱりあれがいいみたいだね。」とユカリは言った。
「そうだな、値段も手頃だし。たたみやすそうなところがいい。」とぼくは言った。
「あんたは絶対たたんでしまっておいたりはしないでしょう?」とユカリは笑って言った。「部屋を少し整理すればいいんだよ。」
「まあね、でも邪魔になる時もあると思うし、その時しまえるのはいい。」とぼくは言った。
「プレゼントは考えた?」とユカリは言った。
「腕時計。」とぼくは答えた。
「だって持っているじゃない?」と彼女は言った。
ぼくは腕に付けているセイコーの、国内では販売されていない、逆輸入の腕時計を見た、午後5時50分。外はもう暗い。デザインが気に入って、インターネットのサイトで買ったのだ。
「これはクオーツなんだ。機械式のが欲しい。」とぼくは言った。
「何が違うの?」と彼女は聞いた。
ぼくは説明に困った。「機械式の時計っていうのはさ、ゼンマイで動いているわけ。」ぼくは言った。彼女はうなづいた。
「つまり人の手で作られているんだ、電池なんてものは入る余地が無い。」「ネジを巻くと、ゼンマイがそれに反応して、歯車を回す。不思議じゃない? それはゼンマイの動力を、歯車が調節して、1秒を1秒に刻むんだ、それを60回、60回、24回繰り返す。」「人が時間を発見して、捉えたんだ。言葉と一緒さ。」
「あんたがそんなにロマンティストだったとはね。」彼女は微笑んで言った。「ある程度知ってはいたけど。」
「おれはロマンティストなんだよ。」ぼくは言った。星のことはなぜか言えなかった。
「でもそういうのって高いんじゃないの?」ユカリは言った。
「クオーツの時計が発明されるまでは、みんなそういう時間の中にいたんだよ。」「もちろん高いのは高いけど、安いのもある。どの世界も一緒だ。」「高いのはさ、1時間に3万6000回振動するんだ、つまり60かける60かける10。0.1秒を正確に示す、らしい。」とぼくは言った。
「じゃあまあ考えておいて。」と彼女は言った。
「ユカリは?」ぼくは聞いた。
「まだ考え中。」とユカリは言った。
時計を見た。6時を回っていた。「ご飯を食べる?」とぼくは聞いた。
ユカリは首を振った。「今日はうちで食べることになっているの。「ほら、昨日泊まっちゃったから、ちょっとね。まずいかなって。」
ぼくは頷いた。「じゃあ姿見を買って帰ろう。」
東急ハンズに戻り姿見を買って新宿で別れた、
駅前の小さな居酒屋で、ビールを飲み食事をし、ぼくは部屋に帰った。
太陽は沈んでいた、星は見えていた。冬の大三角形も見えた。
それはぼくの一部のように思えた。
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