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すべてと無とはじまりと終わりについての話(6)

少しベットで寝てしまったようだった。 
ユカリからのメールで目を覚ました。「今帰るところ。私もあなたに会いたい。でもまだ出来ないんでしょう? あなたのことは信頼している。私は何も心配していない。だから、落ち着いたら連絡してね。」と書かれていた。「ありがとう、君は何も心配しなくていいことだ、ただ説明ができないってだけ。プレゼントを考えておいて。」とぼくはメールを返した。 

時間は午後5時少し前になっていた、バイトに行かないと。メールが来て助かった。 
服は学校にいくそのままだったけれど、居酒屋のバイトだから着替えないといけない、コーヒーを入れて着替えた。あとは破けるしかないというぐらいに着古したジーンズと、古着のTシャツ。古着のジップアップスウェットパーカー。それにもちろん古着の軍放出のジャケット。それらを着てコーヒーを飲んだ。暖房を消した。変な感じだったけど、コーヒーを飲んで、暖房を消したとき、ぼくは部屋がすこし冷えていることを感じた。おかしな話だ、それはコーヒーを飲んで、暖房を切ったときにやってきたのだ、「冷えているのは部屋じゃないんだ。」それは暖房を消された部屋に残される何かだ。 

部屋を出て、一瞬周りを見渡した。特に変なことは起こっていない。それからはいつも通りにバイト先の駅前の居酒屋に向かって歩いた、個人でやっている、小さな居酒屋だ。そこでぼくは文字通り何でもやっていた。店主がしないことの全てだ。給料は安かったが、どういう理由なのか、週末と祭日の前の日は普通に勤めている女の人が働くことになっているようで、ぼくは平日に出ればよかった。もう一人違う大学の男がいたので、そいつとうまく日程を調整することもできた。こんな理想的なアルバイトはそうあるものではない。その女の人に事情があるときは出てくれと言われることもあったが、たまにのことだったし、それは構わない。その時は時給を少しはずんでくれた。用事があれば断ればいいだけだ。店主もいい人だった。料理もうまかった。誰がどう見たって「小洒落た」なんて言えるわけもない店だったが、割と繁盛していた。あまり質の悪い客もいなかった。常連が多くて、みんなでそれを守ろうとしている。一言で言えばいい店だったのだ。 

そしてぼくは3時過ぎまでそこで働いた。一応ラストオーダーは0時半なのだが、まあこういう店にはあってないようなものだ、まだ出来る? と聞かれれば店主は出来るよ。でもこれが最後だぜ。というようなことを言って応える。ぼくはもう片付けを始めている。ビールをくれないか? と言われて、ぼくは店主を見る。彼はうなずく。瓶ビールを持って行って、可能な限り片付けと掃除をしながら、客が帰るのを待つ。今日の客は割にしつこいな。一見ではない、見たことはある。まあでもいろいろあるんだろう。遅くまで、それも平日の遅くまで飲みたくなる時だってある。 

ある程度、時間を過ぎたあとで、彼らは礼儀正しく帰っていった、「遅くまですまない。」と言って。店主は微笑んで、「大丈夫だ。」と言った。こういう店には、こういうことはたまにあっても大きなトラブルというものはほとんど起きないのだ。どうしてかはわからないが。 
ひと通り片付けを終え、閉店する準備ができた、店主は厨房を片付けていた。彼は厨房だけは自分で掃除をし、片付ける。厨房を片付けながら彼は言った。「今日はちょっと大変だったな。」「ビールを開けて飲んでいろ。」 

「別にそんなことないよ。」とぼくは言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、グラスを2個取ってカウンターに座った。はじめはもちろん敬語を使っていたのだが、彼の口調と人懐っこさに釣られていつのまにか普通の言葉遣いになっていた。それに混んでいるときにいちいち敬語なんて使っていられない。 
ぼくはビールをグラスに2杯注ぎ、1つを厨房に持っていった。彼は一口で3分の2程を飲み、いかにも美味そうに深く息を吐いた。「今日は4時までっていうことにしておいてやるよ。」彼は言った。「お前はよく働いてくれてる。まあもう少し愛想があればいいんだけどな。冷静だし、礼儀正しいし、要領がいい。」ぼくは彼にビールを注いで言った。「ここがいい店だからだよ。」自分でもビールを飲みながら言った。「だからいい客が来るし、いい従業員が来る。」「全く逆なのかもしれないけどね。」「逆もまた真なり。」 
彼は笑って言った。「そうだな。いい店っていうのはそれだけじゃできない。良い客がいて、いい従業員がいないとな。」彼は缶詰を3つともう一つビールを持ってきてカウンターのぼくの隣りに座った。そして缶詰とビールを開け、ぼくにビールを注いだ。「お前は今何年生だ?」とぼくに聞いた。「2年生。でも浪人しているからもう20だ。だから酒を飲ませても大丈夫だよ。」とぼくは言った。 
「そんな事気にする奴がいるか。」「大学の奴らなら18の新入生にだって酒を飲ませるんだ。」「おれはこういう仕事をしているからそういう奴らもたまに来る。はっきりいって、あまり良くないことだ、酒の飲み方も知らないガキに意味もなく酒を飲ませて何になるってんだ?」と彼は言った。 
「ただちょっと楽しんで、チャンスがあればモノにしたいと思っているだけだよ。」「おれだっておんなじようなもんだ。」「じゃあなんでおれには酒を飲ませるんだろう?」とぼくは言った。 
「あのな、おれは伊達にこんな商売しているわけじゃない。」「お前がそんな人間じゃないってことぐらいはわかる。」「日本じゃ誰でも酒は飲める。でも酒飲みには色々なパターンがある。最低の奴から立派な奴まで。」「少なくともお前は最低の部類じゃない。」「そりゃあすこしは羽目を外す事だってあるかもしれないよ。でもお前は絶対にそれを人のせいにはしない。」「そういう事が大事なことなんだ。」 

彼は少し疲れて、ビールのせいで少し酔っているみたいだった。だからぼくは急いで缶詰を食べ、ビールを飲み干した。 
缶詰とグラスををシンクに入れ、ビール瓶を片付けた。彼は眠りかけていた。ぼくは彼に話しかけた。彼は起きだして、周りを確認し、「さあ帰るか。と言った。お前、腹が空いていないか? ラーメンでも食っていかないか?」 
駅前の24時間営業のラーメン屋でラーメンを食べた。「お前、これからどうするんだ? なにかやりたいこととか、無いのか?」と彼は言った。 
特に無い。とぼくは言った。「あればいいんだけどね。」そしてユカリのことを思った。ぼくにやりたいことがあるとすれば、それはユカリのこと以外にはない。 

ラーメン屋を出て部屋に帰った、勘定は彼が払った。空はまだ暗かった。星は見えなかった。 

なにか動きがあるとすれば、昨日のうちか、今日中に警察はエリちゃんに何らかの意味で接触を取るはずだ。今日は授業はない。あとは寝るしかない。起きたときにそれはわかるだろう。 

 午前11時に一度目を覚まし、携帯を見て何も起こっていないことを確認し、もう一度眠った。もう一度起きたときは午後2時だった。エリちゃんから着信が入っていた。昼休みに電話をしてきたんだろう。今は電話を返すわけにはいかない。 

昨日帰りがけに買ったパンとペットボトルのお茶を飲み、コーヒーが飲みたかったので3杯分入れた。パンを食べ、昨日のバイトの服と下着を洗濯機に入れ、回した。それからシャワーを浴びた、体が油臭い。いつもバイトから帰ってからはシャワーを浴びたいと思うのだが、疲れて、とにかく眠い。だからとりあえず着ているものをすべて脱いで、ベッドに入り込むことになる。次の日は体が油臭くて気が滅入るのだが、起きたらシャワーを浴びることでなんとか落ち着かせることにしている。ベットのシーツも枕カバーもそろそろ洗わなくてはいけない。ユカリが怒り出す前に。 

シャワーから上がり、顔に化粧水とクリームを塗った、それはユカリがぼくに教えてくれたことだった。いい香りのするボディ・クリームを塗った。そしてぼくは少しまともな気分になった。コーヒーを飲み音楽をかけようとした。ぼくは少し迷った。今の気分に一番確かなのは何の音楽なんだろう。 
迷った末にP.I.L.の「ロマンスの花」をかけた。パブリック・イメージ・リミテッド。ジョン・ライドン。彼は、ドラッグなんてコーヒーよりも簡単なものだと思っているだろう、セックス・ピストルズ以降に親友をそれで亡くしたとしても、個人的な思いこそあれ、それはそれだけのこのだと思っているだろう。そのためにもうドラッグは絶っているのかもしれない。でも一番肝心なことは、彼はピストルズを離れてから、いや、それよりずっと前からなにより音楽に忠実であり、非常にクレバーな人物だということだ。 
「ロマンスの花」はいい音楽だ。実験的であり挑戦的であり、パンク・ロックが終わったあとに鳴るべき音楽だ、そしてそれを終わらせたのも彼だ。「騙されたっていう気分はどうだい?」と彼はピストルズを終わらせたときに言った。世界で唯一、セックス・ピストルズだけが、パンク・ロックを鳴らせたバンドだった。パンクと言うものはそういうものだ、初めにそれをしたバンドだけがそれを許される。 

「ロマンスの花」を聞いてぼくは少し勇気づけられた。本物のパンク・ロック、あるいはポスト・パンク・ロックの最も優れた点は、全く意味が無いという点だ「音以外には何も。」 
CDを2回聴いて、終わってもぼくはしばらくぼうっとしていた。 

6時近くになっていたので、エリちゃんに電話を入れた。エリちゃんはすぐに電話に出た。 
「昨日の昼に、警察から来て欲しいって電話が来たの、仕事が終わってからなら行ける、と言ったら、それでも構わないってことだった。」彼女は言った。 
「おれにも来たよ。拒否したけど。」とぼくは言った。 
「わたしは行かないわけにはいかない。尿検査をされ、髪の毛を2、3本切られた。」「それで任意だと断られた上で、供述した。」「彼が薬物をやっていることは知っていた、でもわたしはやっていない。主に一緒にやっていたのは加藤くんだと思う。他には知らないし、聞いたこともない。って言った。誰から買っていたのかももちろん知らない。って。」「あなたとナオくんについても聞かれた、彼らはどうだ? って。わたしの知る限り一緒にやったという話は聞いたことがない。って答えた。」と彼女は言った。 
「そしたら警察の人が細かい事情を教えてくれた、取引を目撃したあと彼を薬物所持で現行犯逮捕したってこれからはちょっと推測になるんだけど、彼は逮捕されたことでパニックになって、加藤くんの名前を喋ったんだと思う。警察が独りでクスリをやる奴はごく稀だから 
交友関係を調べることになる。っていっていたから。」「その時詰問したんでしょう。」 
「手が込んでいる。」とぼくは言った。「でも大丈夫だ、1年以上やっていなければ検査でそれが出ることはない。」「今日も何もなかったんだろう?」 
「うん、髪も最近短くしたしね。」「今日は何もなかった。」とエリちゃんは言った。 
「じゃあもう大丈夫だ、君がしてれたことはおれにとってはとても重要なことだ。言うまでもないけど。だからそれについてはとても感謝している。」とぼくは言った。 
「それはわたしのためでもあったんだもの。それに綿谷くんや加藤くんもそれを望んではいない。」と彼女は言った。「だいいち、程度の違いっていうものがあるでしょう。」 
「程度の問題じゃないさ。いずれにせよいつかお礼をするよ。」ぼくは言った。 
「じゃあ今日がいいな。お腹が空いたし疲れてお酒が飲みたい気分。もう少しで仕事が終わるから、ご飯をご馳走してよ。」とエリちゃんは言った。 
「もちろんいいよ。何時にどこ?」とぼくは言った。 
「7時半に吉祥寺でいい。」 
「わかった、着いたら電話をする。」とぼくは言った。 
ナオに一度電話を入れたが、彼は出なかった。 

シャワーを浴び、身支度をして7時に中央線に乗り吉祥寺に向かった。 
7時半にエリちゃんと待ち合わせし、わりと高級な居酒屋で食事をして、そのあと近くのバーに行って酒を飲んだ。そして彼女の部屋に行きセックスをした。 

それは分かっていたことだった、そうしないつもりだったらぼくは今日の彼女の誘いを断っていただろう。一昨日のような激しい勃起は感じなかった。ただ彼女はぼくを求めていた。ぼくじゃなくても良かったのかもしれない。ただぼく達は秘密を共有している。彼女は傷ついていた。そしてお互いを許し、癒すべき存在を求めていた。

ぼくは罪を重ねることで、自分をより傷つけようとしていた。自分を罰しようとしていた。 

静かなセックスは終わった、肉体的な悦びもそこには殆ど無かった。彼女は黙って下着を身につけ、カジュアルな格好に着替え、服をハンガーにかけた。ぼくも黙って服を着た。 
彼女はビールとグラスを二つ持ってきて注ぎ、ぼくに渡した。ビールを飲んで彼女は言った。「今日はありがとう。」ぼくは黙って首を振った。 
「おれこそ君に感謝している。」とぼくは言った。君をより傷つけていなければいいんだけど。と言いたかったが言えなかった。 

ビールを飲み、「もう帰るよ、明日も仕事なんだろうし。」とぼくは言った。 
「うん」と彼女は言った。「本当にありがとう。」 

中央線に乗り部屋に帰った。ずっとエリちゃんとのセックスについて考えていた。 
間違ったことだ、するべきではなかったことだ。でもそれは止めようがなかった。エリちゃんのためになったのだろうか? たしかにぼく達はお互いを求めていた。それは確かなことだ。でも本当に彼女のことを考えるのなら、何があってもするべきではなかったのではないだろうか。ただのぼくたちのエゴに過ぎなかったのではないのか。答えは出なかった、出るわけがない。ただのセックスだ、意味なんてない。 

帰りにコンビニでビールを半ダース買った、星なんて見たくなかった。部屋に帰ってそれを飲んだ。なにかがいつか始まったのだ、そして終わろうとしている。 

 ビールを飲みながら考えるともなく考え、ぼうっとしていると1時すぎに電話がかかってきた。こんな時間に電話をかけてくる人間はナオしかいない。 
「悪い、ちょっと学科の奴と飲んでいたんだ。」とナオは言った。 
「エリちゃんから電話が来た。」とぼくは言った。 
「ああ。おれにも来た。まあ彼女も無関係とは言えないにせよ、いい迷惑だよな。」「いい子なのに、全く綿谷は。」と言って彼は黙った。少し酔っているみたいだ。 
「事情を聞いたのか?」とぼくは言った。 
「ああ。警察っていうのは全くろくでもないな。おれは絶対に関わりたくない。」「しかしどうやら、俺がお前のことを話す理由はなくなったみたいだ。」 
「何故そう思う?」とぼくは聞いた。 
「綿谷が加藤のことだけを喋ったんだとしたら、俺がお前のことを話す理由なんてどこにある?」とナオは言った。 
「まあそれはお前が決めることだ。」とぼくは言った。 
「誤解するなよ。俺はなにも話したいと思っていたわけじゃない、出来ればそれはあまりしたくないことだった。だから安心したよ。」とナオは言った。 
「今部屋に向かっているところなんだ。」「そろそろ着くから切るぜ。」とナオは言った。「明日学校は?」とナオは聞いた。 
「一応出なきゃいけない授業があるんだけど、おれもちょっと混乱しているし、考えたいこともある。だから行かないかもしれない。」とぼくは言った。 
「そうか。」「まあそういう事もあるだろう。」ナオは言った。 
「まあ、ああいうことを言っておきながらなんだけど、あまり気にし過ぎるなよ。」とナオは言った。そしてじゃあな、と言って電話を切った。 

ぼくはそれからまたビールを飲み、2本残してベッドに入った。多分これでほとんど終わったことになるだろう。明日中何もなければ、それで終わりだ。友だちが二人逮捕された。それだけだ。ふたりとも初犯だし、実刑になることはない。執行猶予が付いた形で戻ってくる。そしてぼく達は日常に戻る。でも。 
「本当にそうなのだろうか」。なにも変わらないのだろうか、「それはありえない」。とぼくは思った。表面上はなにも変わらないだろう。でも初めからの元の状態には戻れないだろう、時間が全てを変えていくように、この事態はそれを早めたのだ。何年後かに僕らが変わることをそれは今もたらしたのだ。それはいつか変わっていく種類のことだ。それが早回しされただけのことだ、もしかしたらぼく達はもうチームには戻れないかもしれない。でも多分いつまで経ってもチームでいられたわけじゃないだろう。ぼくはこのままでいられると思っていた。ぼく達は最高のチームで、それがずっと続くだろうと、いつまでかはわからないが終わることはないだろうと。でもそれはただの青臭い幻想でしかなかったのだ。はじまったものはいつか終わるのだ。はっきりした終わりでなくても、それは始まった時から失われていくのだ。そして始まったものが失われ始めたとき、全てであったものは無に帰していってしまうのだ。完全でないものは無でしかないのだから。 

ぼくはぼく達が初めて出会った頃のことを思った。大学に入って様々な意味のわからない飲み会があった、2、3回出た時点でぼくはそんなものにうんざりし始めていた、そこで加藤に会った。「全くくだらないよな。」と彼は言った。「バカげてるよ。マトモな奴なんてひとりもいない。」「でもあんたはわりとまともそうだな。」「少なくともこんなバカげた飲み会にきて、バカバカしくてひとりで外に出ている。」「俺は加藤っていうんだ。」「チームを募集している。」と言って彼は笑った。 
そのあと加藤を追ってナオが煙草を吸いに外に出てきた。加藤がぼくにナオを紹介した。「友だちになったんだ。ナオっていうんだ。あんたと一緒でわりとまともな奴だよ。」ナオは苦笑していた。「こいつよりはな。」とナオは言った。 
そのあとナオが同じ学科の奴だと言って綿谷を紹介してきた。そしてぼく等はチームを組んだ。そういえばユカリに会ったのもその頃だ。そのような下らない飲み会で、ぼくはもうそんなものに行きたくなかったのだが、学科の奴に連れられて言ったのだ。そこで綿谷がぼくに引きあわせた、綿谷はユカリを知っていたわけではなかった。ただその飲み会で話しかけ、ぼくに紹介しただけだ。ぼくとユカリは会った時から話が合った。そこで連絡先を交換し、たまに会うことになり、デートをし、セックスをした。 

それが一応のはじまりだった。そしてそれはもしかしたら終わろうとしているんだろう。 

そしてぼくは眠った。「終わりのはじまり。」とぼくは思った。 

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