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すべてと無とはじまりと終わりについての話(7)

目が覚めた時、時計は12時過ぎを指していた。 
ぼくはコーヒーを入れようとしてやめ、昨日の残りのビールを飲んだ。 
音楽をかけた、スティーヴ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」。 
13時をすぎてエリちゃんから何も連絡がなければ、ユカリに連絡しようと思っていた。 
ビールを2本飲み、時計は13時過ぎになっていた。ユカリにメールを入れた。「どうやら一応事態は落ち着いたようだ。君に話をしたい、説明しなければいけないことがある。時間があるときに会いたい。」と。 
すぐにユカリから返信があった。「連絡を待っていた。今学校にいる。あなたは来ないの? 会って話を聞きたい。会いたい。」と。 
ぼくは時計と授業表を確認した。出ないといけない授業は午前中で、今から出る授業はない。「今日はもう出る授業がない、もし今日時間があれば連絡して。」と彼女に返信した。「学校が終わったら連絡する。」と返信が来た。 

コーヒーを入れて飲み、続けてその音楽を聞いていた。ひどく喉が乾いたのでビールを買いに出た、出るときにまた一瞬あたりを見渡したが、おかしなところはなかった。もちろん警察はプロだ。ぼくがちょっと見渡しただけで分かるわけがない。コンビニでビールを買って、帰ってそれを飲んだ。行くときも帰る時も周りを注意して見ていたが、変なところはなかった。ビールを飲みながら、ずっと「18人の音楽家のための音楽」を聞いていた。 

16時半をまわってからユカリから電話が来た。「何をしているの?」 
「部屋にいて音楽を聞いている。」「君に説明しないといけないことがある。会えないかな?」とぼくは言った。 
「いま授業が終わったところ。私もあんたに会いたいし、話を聞きたい。」「あんたの部屋に行く。いい?」と彼女は言った。 
「そうしてくれればいい。すまないけど買い物をしてきてくれないかな。」とぼくは言った。 
「何を買っていけばいいの?」 
「ビールを半ダース。」 
「もう飲んでいるの?」とユカリは言った。 
「ああ。」とぼくは言った。 
彼女はため息を付いた。「それだけのことがあったんでしょうね。」とユカリは言った。「あと30分ほどすればいけると思う。」「髭は剃っておいてね。」と彼女は言った。冗談のつもりだったのだろうが、それは全く冗談に聞こえなかった。 

ユカリが来る間、ぼくはずうっとぼんやり音楽を聞き、残り少ないビールを飲んでいた。彼女になんて説明するべきだろう。もちろんすべてを説明するわけにはいかない。なにが正しくて、なにが間違っているのか。なにが本当に起こったことで、なにがそうじゃないのか。ぼくはそれを考えていた。 

部屋のインターフォンが鳴り、ぼくが応えると「あたし。」とユカリの声がした。ぼくはドアを開けた。何日かぶりににユカリの顔を見て、ぼくはほんとうにほっとした気分になった。ユカリも少しほっとしたような微笑を浮かべた。ぼくはほんとうにそのまま倒れこんでしまいそうだった。 
ぼくはゆっくりユカリにもたれこんだ。彼女はドアを閉め鍵をかけ、ゆっくりと優しくぼくを抱きしめた。少しの間そうしていた。そしてぼくはしっかり立ち上がり彼女を部屋に入れた。 

彼女を座らせて、彼女の買ってきたビールを開け飲んだ。部屋にはまだ「18人の音楽家のための音楽」が鳴っていた。「なにを飲む?」とぼくは彼女に聞いた。 
「同じものでいい。」とユカリは言った。彼女の目は優しかったけど、何かしら、決意のようなものが伺えた。それでぼくはグラスを持ってきて、新しいビールを開けそこに注いでやった。彼女はそれを静かに一口飲んだ。 
しばらくそうしていた。「18人の音楽家のための音楽」が終わったのでぼくはCDを変えた。ジミ・ヘンドリクスの「エレクトリック・レディランド」。 

「何があったの?」ユカリが聞いた。 
そしてぼくは説明した。「綿谷がパクられた。ドラッグのことだ。」「そのあと、綿谷の供述から加藤もパクられた。おれは知らなかったけど、二人で結構頻繁にやって、遊んでいたみたいだ、だから綿谷がパクられた時エリちゃんとナオと会って話をした。」「加藤はその時来なかった。実際に身の危険を感じていたんだろう。」「でも昨日エリちゃんから聞いた話、ーエリちゃんも任意で一昨日事情聴取を受けたみたいだーによれば、少なくともぼくについては証拠がない。綿谷はパニクって加藤の名前を出しただけのようだ。もちろんそのときにおれの名前もでる可能性もあった。でも出なかった。そして今日になってもエリちゃんからは何の連絡もない。ひとまず安心っていう段階になったっていうことだ。」「証拠があるなら、おれはもうパクられているはずだから。」とぼくは彼女に言った。 
ユカリは少し黙っていた。ある程度想定していたことではあっただろう。でもそれが現実になるかならないかでは全く意味が違う。 
「あんたはそれを本当に知らなかったの?」とユカリは聞いた。 
「全く知らなかったといえば嘘になる。そういう雰囲気を感じてはいた。でもそこには必要以上に関わらないようにしていた。自分がドラッグを欲しい時に回してもらっていただけだ。そこまで奴らがハマっているとは思っていなかった。それは嘘じゃない。君に誓って。」とぼくは言った。 
「あんたに容疑がかかることはもうないの?」と重ねて彼女は聞いた。 
「100%無いとは言えない。でもおそらくもう大丈夫だと思う。」「少なくとも、ぼくは君のことは絶対に喋らない、それは120%確かなことだ。言う理由がない。」とぼくは言った。 

彼女はビールを飲み深く呼吸をした。「少なくともあたしたちにとっては安全な領域に入ったと言っていいのかしら?」とユカリは聞いた。 
「そうだね。おれはもうドラッグには手を出さない。なにがあろうと。遊びは終わったんだ。そして少なくとも君は関係ないさ。ぼくにとっては幸運だった。そうなるだろうと思っている。」 
「わたしが関係ない訳ないでしょう!? あたしのことはいい。あんたがもし逮捕されたら…」と言って彼女は涙を浮かべた。 
ぼくは戸惑った。そしてエリちゃんのことを思った。 
「ごめん。言い方が悪かった、君を絶対に心配させたくなかったんだ。たしかにぼくについてはまだ完全に安全とは言えない。でもほぼ大丈夫だ。それは良かった。ぼく達にとっても。」とぼくは言った。 
ぼく達はしばらく黙っていた。ぼくはまたビールを開け、彼女に注ぎ、彼女の余ったビールを飲んだ。CDが終わったので別の音楽に変えた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Ⅲ」。 

「それでしばらく参っていたんだ。君に会いたかった。」ぼくは言った。 
「「君」じゃないでしょう?」とユカリは言った。 
「ユカリに会いたかった、会って話をしたかった。」とぼくは訂正した。 
「あたしのことが好き?」とユカリは聞いた。 
「好きだよ。もちろん。」ぼくは言った。 
「誰のことが好きなの?」とユカリは微笑んで聞いた。 
「ユカリのことが好きだよ。とても。」とぼくは言い直した。 
「あたしもあんたのことが好き。なにがあっても。」とユカリは言った。 
それでぼくはまた彼女にもたれかかり、今度は優しく抱きしめた。 

彼女も優しくぼくを抱きしめ返した。そしてぼく達はセックスをした。セックスをする前にぼくはまだ彼女に言うべきことがあるんじゃないかと思った。でもそれは結局、言葉に出来ない言葉であり、声にならない声だった。ぼく達はそれを行動で示すしかないのだ。それは優しく、親密なものだった。それはぼくを癒してくれた。しかしそれはぼくが今までしてきた中で一番哀しいセックスだった。それはぼく達が出来うる限界を示唆していたからだ。分かり合うこと。それが限りなく不可能に近いものであることをそれは示唆していた。 

近くにあるように見えて限りなく遠くにある星のように。 

 そのあと、一週間、特に何もなくぼくは過ごした、大学に行き、従業をさぼり麻雀をして負けた。学科の強い奴はぼくの手を見て言った。「特に変なことをしているわけじゃないんだけどなあ、まずまず真っ当な打ち方なんだけど。なんかもう、あまり勝つ気がないとしか言い様がないよ。」 
ユカリにも会った、学内で、そして休日には街に出てデートをした。「君はプレゼントを考えたの?」ぼくは言った。「うーん。まだ。」とユカリは答えた。腕時計を見に行った。機械式の時計なんてほとんど置いていなかった、いまどき機械式の時計を欲しがる人間なんてほとんどいないのだ。高級時計以外には。 
そこでぼく達はインターネットでそれを調べることにした。まずまず安価で、デザインもいい機械式の時計を見つけ、それを売っている店に行った。デザインは外国のブランドのものだったが、機械は日本製のものだ。「なかなかいい、似合うよ。」と言ってユカリはそれを買ってくれた。 

そのあとぼく達は原宿から新宿に行き、ファッション・ビルやセレクトショップを見て回った。そこでぼくは深い赤色の少しだけ同色の模様が入ったシックなカシミアのマフラーを見つけ、ユカリに勧めてみた。「お洒落だね。でもあたしにはちょっとシックすぎるんじゃないかな。」と言って彼女はそれを巻いてみた。「そんなことない。」「似合うよ。」「よかったらそれをプレゼントしてあげる。」とぼくは言った。「うん。じゃあこれにする。ありがとう。」 

それからご飯を食べた。「クリスマスにはまだ早いけど。」といってぼく達は乾杯した。 

ナオにも何回か会った、別にいつも通りだ、会って酒を飲み、世間話をして帰る。 
「あいつらはろくなもん食ってないんだろうな。」「出てきたらうまいもんでも食いに行こう。」「誰が払うかは分かっているだろうな?」とナオは笑っていった。ぼくは苦笑した「そうだな。でもお前は自分の分を払えよ。」 

クリスマス前の連休の前にエリちゃんから電話が来た。「面会できるみたいだから連休中に行ってこようと思う。」と彼女は言った。「ぼくも行くよ。」とぼくは言った。「大丈夫?」とエリちゃんは言った。「でも来てくれれば嬉しい。」 
「ついでに加藤にも会えるか聞いてみるよ。」「もし君が良ければだけど。」とぼくは言った。「構わない。」と彼女は言った。「じゃあわたしが電話して聞いてみる。綿谷くんに会って、そのあと加藤くんに会えるか、時間はいつがいいか。」「大丈夫かな?」とぼくは言った。「だって別々に電話したらかえって不自然でしょう?」とエリちゃんは言った。 

その後ナオに連絡した。ナオも行くといった。 
土曜日の午前10時に警察署に行き、名簿に名前と住所を書いた。それから面会室に案内された。すべてがクリーム色がかった白い部屋で、折りたたみの椅子の黒色がやけに目立った。そしてもちろん真ん中には透明の仕切りがあり、穴が開いている部分は2重になっていて、爪楊枝すら通せないようになっていた。そしてその奥に銀色のドアがあった。その部屋にあるものはそれが全てだった。 
5分ほどしてから奥のドアが開き、綿谷が出てきた。手錠はしていなかった。ぼくらを見て驚いたようだった、警察官が仕切りの前の椅子に座らせ、自分は奥にある椅子に腰掛けた。綿谷は始めうつむいていたが、やがて顔を上げ、「心配かけてすまない。」と言った。そして黙っていた。 
「体調は大丈夫か?」とぼくは言った。「大丈夫だ。逆に調子がいいぐらいだ。」と綿谷は言った。

「なるべく出席は足りるようにしておいている。出来る限り。」とナオは言った。 
「助かるよ。」「多分テストにはいけるだろう。」と綿谷は言った。 
エリちゃんは少しうつむいてずっと黙っていた。綿谷は彼女を見たが、すぐ目を逸らした。その後は特に話すことがなかった。「元気なら良かった。」とナオが言った。警察官が近づいてきて終わりを促した。「ちゃんとして、早く出てきてね。」と初めてエリちゃんが話し、綿谷は頷いた。そしてドアから出て行った。 

それから加藤に会うのに30分ほど待たされた、ぼく達はまた名簿に名前と住所を書き、面会室に入った。また5分ほどしてから加藤がやってきた。加藤は僕らを見渡して、「よく来たな。全く死ぬほど退屈なんだ。気が滅入る。」と言って腰掛けた。「何故か本だけはあるんだけどな、こんなとこで本なんか読む気になれないよ、お前らも試してみるといい。」 
「元気そうだな。」とナオが言った。 
「ああ、死ぬほどヒマな以外にはな、食うことしか楽しみがないよ、ろくなもんじゃないけどな。」と加藤は言った。「中のことを喋るな。」と警察官が言った。加藤は少しそちらを見た。 
「一応テストには間に合うけど、出席がどうかな。まあおれはけっこう今まで出ていたから多分大丈夫だろう。」 
ぼくは何も言えず黙っていた。 
エリちゃんはすまなそうな顔して加藤をずっと見ていた。 
「俺は大丈夫だ。心配かけたかもしれないけどまあなんとかなんとかだ。」と加藤は言った。「あんまり気にしないでくれ。」とおそらくエリちゃんに言っていた。 

警察署を出てカフェでお茶を飲んだ。と言っても話すことはほとんど無かった。エリちゃんはずっと黙っていた。ぼくは、警察署に行って名前と住所を書いたーもちろん警察はそれを知っているはずだがーにもかかわらず、話を聞かれなかったことについて考えていた、警察っていうところは何よりも手順が優先される。面会に来た人間に話を聞いたりはしないのかもしれない。でも任意で話を聞くことぐらいはできるはずだ、おそらく警察はもうぼくに興味を持っていないのだろう。エリちゃんが出頭し、ぼくについての供述もなく彼女についての証拠も出なかった。ぼくには何の証拠もない。一人を現行犯逮捕した、そして一人の連れの名を引き出し逮捕した。それで満足し、幕を引いたのだろう。 
「まあ、ふたりとも元気そうでよかった。加藤は相変わらずだったな。」とナオが言った。「そうだな。」ぼくは言った。エリちゃんは頷いた。 

カフェを出て別れた。ぼくは部屋に帰った。ユカリにメールを入れた。ひどく疲れたような気がした。実際にぼくがあそこにいた可能性だってあったのだ、それもかなり高い確率で。でもどうやらぼくは生き延びたみたいだ。それは幸運だった。でもぼくは奴らに引け目を感じる。感じる必要なんかないのかもしれない。なるべくしてこうなったのだから、程度の問題ではないが、でも実際にぼくはまれにしか薬物をやらなかった、危険性の問題から言えば奴らのほうがリスクは遥かに高かったのだ。でもそういう思いを感じざるを得なかった。 
エリちゃんとのセックスを思い出した。ぼくらはお互いを許し、癒していた。ぼくは自分自身を傷つけ、罰していた。どうしてそう思ったのだろう。罪を引き受けることで、自分が感じている引け目から逃れようとしていたのか、あるいはそれをよりはっきり理解しようとしていたのだろうか、自分を納得させ、そしてそれを乗り越えようと。卑怯な考え方だ。ただエリちゃんがぼくを求めていた。何よりもそのためにその行為はあったのだ。ぼくがそれを利用したということになるのかもしれない。と思うと辛い気持ちになった。ぼくは優しくなんかない、強くもなれない。なれなかった。 

ユカリから電話が来た。「大丈夫だった? 二人は元気だったみたいだけど。」 
「うん。大丈夫だった。」「でも少し疲れた。ああいう場所は人を疲れさせる。」とぼくは言った。 
「大丈夫? そっちに行こうか?」とユカリは言った。「それともひとりでいたい?」 
「そんなことないけど、いまぼくといてもあまり楽しくないかもしれない。」「正直に言ってけっこう参った。」とぼくは言った。 
「あたしがあんたといて楽しくないわけないでしょう。今から行くね。」とユカリは言った。 
「わかった。ありがとう。」とぼくは言った。 

ユカリが来る間、ぼくはジョン・コルトレーンの「バラード」をかけ、聞くともなく聞いていた。 

星はまだそこにあるのだろうか、宇宙はまだ終っていないのだろうか。 

#創作大賞2023
#オールカテゴリ部門

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