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【掌編小説】あわび

テーマ:微エロ   ジャンル:奇妙な話

 誕生日に彼女から贈られたプレゼントはあわびだった。
 それも、たったひとつだけ、生きたやつを水槽に入れて渡されたのだ。ペットにしろ、ということだろうか。戸惑いながら受け取ると、かすかに磯の香りがした。
「食べたらすぐ無くなっちゃうね」
 冗談半分でそう言うと、彼女はなぜか嬉しそうに笑った。
「それがそうでもないのよ。あのね、もともとある種のあわびは、ジセツ出来るんだけど……」
「ジセツ?」
「自切。足や尾を自分で切り捨てることよ。敵がそれに気を取られているうちに、本体は逃げる」
「ああ、トカゲのしっぽ切り」
「そう。でもね、これはもっとすごいの。身を半分に千切っても、元通りに再生するの。つまり、半永久的に食べられるってわけ」
「本当? すごいな。けど、生きたまま切るんだろ。大丈夫なのかな?」
「大丈夫よ」
 彼女は事もなげに言った。「この子は痛みを感じないから」
 どうしてそんなことが分かるのだろう、と思ったが、口には出さずにおいた。彼女は得意げに説明を続ける。
「餌もね、簡単なのよ。何でも食べるの。肉でも野菜でも。あなたの食べ残しをあげたらいいわ」
「へえ。そんなもんなの」
「特別なのよ」
 僕は特別なあわびのお礼を言って、彼女にキスをした。
 このところ彼女の機嫌は、すこぶるいい。少し前までふさぎがちで、しゃべっていても反応が薄かったり、逆にいらだちの矛先を僕にぶつけられたりして、正直まいっていた。
 だから、今の状態を喜ぶべきなのかもしれないが、どうしても反動を警戒してしまう。
「早速、切ってみましょう」と彼女が言い出したので、僕は慌てて止めた。
 特別な貝に、万一のことがあったら、彼女の機嫌は頂点から奈落の底にまっさかさまだ。
「今日は止めとこうよ、少し様子を見てみたいし」
 ああそう、と彼女は無表情に、キッチンへ行った。どうするのだろうと見ていると、スパゲッティを作り始めたようだった。
 残された僕はあわびを観察した。大きさは赤ちゃんの手のひらほどで、殻はごく地味な黒色だ。
 だが水槽の壁に張り付いている身の方は、彼女の肌のような色をしている。肌色の周囲を淫靡(いんび)な黒い襞が囲っていて、僕はすこし変な気持になった。
 スパゲッティが出来上がると、食べながら大学やバイトでの出来事を話した。
 僕の話に彼女は笑ってくれたが、どこか上の空のような感じがした。そして、食べ終わるとすぐに「レポートがあるから」と、あっさり帰っていった。

 彼女が帰った後の空白を埋めるように、僕は再びあわびを観察した。
 しばらく見ていると、少しずつ移動しているのがわかった。移動した跡に透明な粘液が残っている。
 ためしに、彼女が作ったミートスパゲッティの残りをやってみることにした。
 スプーンでソースをすくってあわびのそばの壁に垂らすと、近寄って唇のようにも見える襞の内に引き込んだ。かすかに身を震わせて喜んでいるように見える。
 ふいに、子どものころに飼っていた蝸牛(かたつむり)を思い出した。貝も糞(ふん)をするのかどうか知らないが、蝸牛みたいに餌と同じ色の糞をしたらいいな、と思った。

 二日後、大学の食堂で会った彼女は弾んだ声で、もう食べたかと尋ねた。
「まだだよ。糞の色を確認できていないからね」
 僕は糞を言い訳にした。
「でも、君が食べたいなら、食べたらいい」
「いやよ。あなたにあげたんだから、最初はあなたに食べてほしいわ」
 僕はその言葉を、僕への愛の証のように感じて、彼女の髪を撫でた。彼女の髪は柔らかで、肌は無垢に光っている。それらは、愛すべき彼女の構成要素だ。
 けれど、僕が最初に彼女に心惹かれた点は、彼女の容姿でも性格でもなく、彼女の書く字だった。

 出会いは、大学のサークルだった。
 サークルのアンケート用紙か何かに書かれた、妙に味のある彼女の字を見て、僕は思わず、へえ、と声を上げた。
 決して上手な字ではない。
 どちらかというと読みにくい字だ。一字一字は右に寄ったり左に傾いたり、へんなところが伸びたり、縮んでいたりしている。にも関わらず、全体で見ると奇妙にバランスが取れていて、ただのアンケート用紙がまるで何かのアート作品かのようだった。
 氏名の欄を見ると「井田眞子」とある。
 「真」子じゃなくて「眞」子なのがまたいい、と僕は思った。アシンメトリーなこの字も、いろんな部位が伸び縮みして、気持ち良く美しくバランスを取っている。
「いい字書くよね」
 「井田眞子」と初めて話す機会が来た時、僕は言った。
「よしてよ、言われたことないわ」
 そう言いながら、言葉とは裏腹に心底嬉しそうに笑ったので、ああ本当は 自分でも気に入っているんだな、とわかった。
「習字の成績なんて、いつも最悪だったわ」
 思わず、「見る目のない先生だなあ」と言うと、「井田眞子」も、そうでしょうと言い、ふたりで笑いあった。
 しばらくして、「井田眞子」は僕の彼女になった。
 彼女は、勝気で感情的で非論理的なのに、薄氷のように壊れやすく、優しかった。
「字は人を表す」とは本当によくいったものだ。
 彼女の字は、あやういバランスで成り立っている彼女そのものだった。

 教室へ戻る彼女の背中を見送ってから、僕は家に帰ろうとした。だがふと覗いた本屋で小説を買ってしまい、せっかくだから読んでしまうおうとファストフード店に入った。
 奥に同じサークルの男子学生が連れの男と座っているのが見えたが、取り立てて仲がいい奴ではないので、声はかけずにいた。向こうは僕に気付いていないようだった。僕は熱いコーヒーを口に含み、本の表紙をぼんやり眺めた。
「お前最近、井田と仲いいな。付き合ってるの?」
 男の声が耳に飛び込んできた。一瞬、自分が訊かれているのかと思い、顔を上げたがそうではなかった。奥の席で、連れの方の男が、男子学生に訊ねていた。
 ぼくはどきりとしてきき耳をたてる。
「いや、俺、他に彼女いるよ。井田も付き合ってる奴いるし」
「なんだ、そうなのか」
「……といっても、俺と井田も、付き合ってるようなもんだけど」
 男子学生は言った。含み笑いで。
 僕は口の中のコーヒーをゆっくり呑み込んだ。
「何それ。お互いに浮気してるってこと? やばくないの?」
「俺も井田に言ったんだ。こんな関係、彼氏にばれたらまずいだろって。でもあいつ、大丈夫だって言うんだ。彼氏はそんなことに痛みを感じないからって。例え傷ついてもすぐなおるから、私たちは好きにしててもいいのよ、って笑うんだ」
 僕は静かに席を立ち、店を出た。

 夜まで街をさまよい、部屋に帰ったのは日付が変わってからだった。
 僕はしたたかに酔っぱらっていた。
 ぐるぐる回る視界のなかで、水槽のあわびだけが、静止した状態でくっきりと映った。
 ――大丈夫。この子は元通りに再生するから。痛みを感じないから。
 僕は水槽にへばりついたあわびを剥ぎ取った。
 あわびは身をよじっている。
 震えながら命乞いしているのかもしれない。けれど、僕はハサミを取り、唇のようにも女のようにも見える、淫靡な襞を切り取っていった。
 あわびは、激しくもがく。切り取られたところから透明で、わずかに粘つく液が溢れてくる。
 僕は笑った。ほら見ろ、痛みを感じないなんて、嘘じゃないか。
 切り取ってしまうと、殻にはつるんと無垢に光る、肌色の身が残された。
僕は水槽の底に切り取った黒い襞を置いた。
 その上にあわびの身を載せた。
 あわびは、切り取られた自分の半身の匂いを確認するような仕草をしていたが、しばらくすると残った身をうねらせてむさぼり始めた。
 餌になった襞は、齧られながら、断面から透明の粘液を流し、ついにしぼんで無くなった。

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