祖母への手紙

祖母に手紙を書こうとして、もう半年以上経つ。

祖母は私が障害者になったことも知らないし、この足が永遠に動かないことも知らない。排泄も人の介助がないとままならないなんて想像もつかない。私がいまも毎日仕事に明け暮れていると思っているはず。

私が受傷したのは去年の11月なので、そこから今まで手紙を書けていない。つまり新年の挨拶すらできていないのである。

祖母も現在は施設で暮らしていて、その施設は気軽に会おうとは思えない、中々行きづらい場所にある。自家用車があることが前提のアクセスで、バス等々公共交通機関でも行けなくはないが…といった具合。
実際に顔を見たのは昨年の今頃だったと思う。

社会人になるまで祖母とふたり暮らしで生きてきた身としては、正直毎日でも会いたいほど。
こうなった以上どうしようもないし、私は今でも全然死にたいが、祖母と暮らしていたらきっと自分から死のうとは思わなかったのではないか。

母からの軽度の虐待に苦しむ私を、いちばん近くで寄り添って守ってくれていた人である。祖母にとっても私は初孫であり、唯一の孫。会うと喜んでくれるし、私が仕事で昇進した話などは感慨深そうに聞いていた。手土産の和菓子の方が嬉しそうだったけれど。

そんな祖母へ、いま私はどんなふうに手紙を宛てれば良いかわからない。

叔母からは「窓の掃除をしているときに、誤って転落してしまった」ことにして欲しいと言われた。「足はいずれ動くようになる」とも。
足が動くようになるかもしれない、というのは叔母も諦めていない様子だったが、脊髄損傷は受傷後2週間以内に治療しないと回復しないらしい。受傷2週間、私は意識を失っていたし、その後もしばらくボーッとしていた。入院中に札幌医科大学の脊髄再生医療を見つけたが、「間に合わない」と言われた。よって私は永遠に治らないし、2度と自力で立ち歩く事はできない。

その事実を抱えた私は、ずっと机の上に広がるレターセットを眺めている。

祖母へ連絡は取りたい。一応生きている事は伝えたい。会いたいと願っている事は伝えたい。けれど、自分から死のうとして失敗した私が、会いたいなんて。

祖母が覚えているかは分からないが、私は中学生のとき色んな事が重なって、近くの跨道橋から飛び降りようとしたことがある。
夜8時くらいに散歩がしたい、と言って家を飛び出して、跨道橋の上に行った。1時間ほど泣いて、泣き疲れて帰った。
祖母はこんなに遅い時間まで出歩くのは、もうやめてほしいと言った。秋口、少し冷えてきた夜だった。何か温かい飲み物を飲んで寝なさいと言われたとき、私は「もう死にたかったの」と言った。
1時間も泣いたのに、私はまた泣いてしまって、祖母の顔は見れていない。けれど、すごく悲しそうな声で「そんな事を言わないで」と言って温かいお茶を淹れてくれた。そして私を隣にそっと座らせて、私が泣き止むのを待ってくれた。
祖母は頭が切れる方でもないし、手先がすごく器用な訳でもなかった。口がうまいわけでもないから、ただ何も言わず、私の肩と背中を両手でそっと押さえながら居た。
私はそれが、すごく嬉しかった。すごく温かかった。

飛び降りる前に書いた遺書はいくつかあって、その中に祖母に宛てたものもあった。

自慢の孫にはなれなかったかもしれないけれど、私はあなたの孫でいられて幸せだったと、そんなことを書いたと思う。

ねぇばあちゃん、次会えたら、私はまた泣いてしまうだろうから。
そしたら、また何も言わずに、私の手を握っていてね。
本当は立派な姿を見せるのが、親孝行なのに。
ひとつも親孝行できなくてごめんね。

この気持ちを、とりあえず手紙にしたためることにする。

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