PANCETTAワークショップレポート 2023年4月


先月29日・30日の二日間にわたり、PANCETTAのワークショップが開催された。
4月も終わりらしく、やや汗をかくほどの陽気の中、12名の参加者が世田谷区の某所に集まった。
俳優として活動している人もそうでない人も、老若男女、さまざまな背景をもつ人たちが一堂に会した。

まずはじめに一宮が口にしたのは、自分は”教える”立場なのではなく、各々の気づきのためにこの場を利用してほしいということ。そして自分が見たいのは人が一生懸命生きている姿であり、普段から”対話する”ということを大切にして創作を行なっているということ。


最初に始まったのは、お互いの名前を呼ぶ、というワーク。
参加者は、立って全員でひとつの円をつくる。自分の名前が呼ばれると、呼ばれた人は自分でもその名前を言いながら受け取る。受け取ったら、次の相手(誰でも良い)の方を示して、その人の名前を呼ぶ。これを繰り返す。

このとき、呼ぶ相手の目を見て確実に伝え、呼ばれた方も受け取ったとはっきり示す。徐々に呼ぶ名前の経路を増やしていくと、周りの声に埋もれてしまわないように自然と声が大きくなってくる。目を見開いて、強く頷く。全身を大きく使って何とか伝えようとする。1回で相手に届かなければ、何度でも伝わるまで必死に呼び続ける。ただ名前を呼ぶ・受け取るだけでも、きちんとやりとりしようとすると、普段は隠れている不器用さが現れる。そうしてお互いに曝け出した結果か、このワークのあと参加者の表情が柔らかくなり、他愛無い会話も増えていた。


次に行なったのは、別の人になって話してみる、というワーク。
2人1組になり、今日ここに来るまでにあった出来事をお互い30秒ほどで話す。
そして今度はその相手になって、今日ここに来るまでに何があったか、観客(=他の参加者)に向かって話す。

見た目も全く違うし、実際にその人になることはできないはずなのに、堂々とした口ぶりで話されると妙に納得感がある。まるでその人が話しているように感じる瞬間もあり、2日目に同様のワークを行なった際には、演じている人が違うのにも関わらず、「昨日言ってたあれ、どうなった?」と思わず聞いてしまう、不思議な混乱も発生。

「他人になるなんて不可能ですよね。今みたいに短い時間であってもできないんです。まして台本に書かれたことなんて、それだって所詮は他人の言葉ですから、言えませんそんなもの。大事なのは、どうしたらその人としてその場にいて、何かを感じられるのかだと思っています。」と一宮。

そして3つ目のワーク。
名詞または形容詞が書かれたカードを何枚か持って2人1組になる。
これから口論をしてもらいます、という。そして、口論をしながら、好きなタイミングで相手のもつカードを1枚ひき、その単語を相手にぶつけてみる。そしてその上でまた口論を続ける、というのを繰り返す。出てくる単語は、口論の内容とは関係のないものばかりだ。脈絡のなさと、それでもその言葉を発しなければならない心地悪さとに耐えかねてか、言っている本人が思わず笑ってしまう場面も多く見られた。

これら3つのワークを終えたところで、台本に入った。
今回扱ったのは、岸田國士『動員挿話』。
この戯曲を選んだ理由のひとつとして一宮が挙げたのは、今の言葉遣いとは異なるためセリフに対する違和感が大きく、言えた気になりにくいということ。 
1度本読みをし、皆で読み方や意味を確認したところで、早速立ってやってみる。

一宮はセリフを追う参加者に、もう台本はビリビリに破いていいです、と言う。「正しいことを言おうとしなくていいから、とにかく、今目の前にいる相手と対話してください」「目の前にいるこの人はだれですか?」と何度も言葉をかける。
恐る恐る台本をおく参加者たち。(近くにあるとみてしまうから…!と、他の人に没収してもらっている姿も。)その所在なさげな表情から、縋るものがないという不安がひしひしと伝わってくる。しかし、そうして相手をきちんと見据えて向かい合ったときはじめて、生き生きとした対話が始まった。

ひとりの参加者が夫人を演じたとき、「夫人にとって、従卒(相手)はどういう存在なんでしょうね?」という一宮の問いかけから、試行錯誤が始まった。そういう存在は日常にいるか、との質問に、その参加者はしばらく考えたのち、「状況は違うけれど、前にレストランのバイトリーダーみたいなことをしていて、そのときの、仕事のできる後輩とか……?」と、具体的な体験談を挙げた。すると今度はその状況をみんなで再現。こうして、身近な感覚へと置き換えていく。やってみると、その夫人役の参加者は、優しくて頼れる先輩という感じに見える。ここで、では台本にある夫人は従卒に対してそんなに丁寧なのか?という疑問が湧くと、じゃあ次はもっと忙しいレストランということにしてみましょうか、と設定を変更。しかし、丁寧さはあまり変わらなかった。すると、「あぁー、接客の場だと、そこは崩れないのか」と一宮。そしてそれなら今度は、とまた別の方法を試し始める。こうした小さな挑戦と失敗、気づきの過程が幾度となく繰り返された。


2日目。
前日同様に3つのワークを行なったのち、この日は新たなワークが加わった。
1人ひとつセリフが渡され、そのセリフを3分間のエチュードの中で言うというもの。見ている人たちには、そのセリフが何であるか気づかれないように、そのセリフを言ってもおかしくないような人になってみるというものだ。だが、用意されたのは明らかにこんなこと絶対言えませんけど、という無茶なセリフばかり(例えば「悲しみの海に溺れてしまいそう」なんて、普段の私ならどうがんばっても言えないだろう)。与えられた言葉を言ってみるという点では3つ目のワークと共通しているけれども、そのときには短い単語だったのが、今度は比較的長い文になってい
る。その分難しくなるのだろう、参加者たちは与えられたセリフを見るなり頭を抱えている。

とにかくやってみたのちにセリフが明かされると、なるほど、それでそういう人になっていたのね、という納得や、それはその人じゃあ言えなさそう、という意見が参加者たちからあがる。
一宮が強調するのは、たったひとつのセリフがこんなにも言えないのだということ。しかし、台本になり決められたセリフが並んでいると、その”言えない”という素直な感覚を無視してしまう。
台本のセリフ全てに対して、さらには単語のひとつひとつまで、これを言ってしまうのはどんな人だろうね、と考える余地が無限にある。

これら4つのワークを終えて、再び台本に入る。
前日同様、ぐちゃぐちゃになってしまってよいので、とにかく目の前の相手と対話してください、ということが繰り返し伝えられる。
なかでも、ある参加者の変化していく様が印象的だった。

彼もやはり、台本で頭がいっぱいになって固まってしまう。そうなっているときに一宮は、「今台本を見なくていいですから、相手を見てみてください」「あなたは少佐です」「この人(相手)は誰ですか?」「名前は?」「この人はどんな人ですか?」と、想像をめぐらせるよう問いかけていく。そして「今は、名前も知らない人が隣にいるんです。そういうことに気がついたほうがいい」と言う。
その会話のなかで、参加者の発したひとこと。

「今は、自分が少佐だとは感じていないです。」

他人になんてなれないし、他人の言葉なんてしゃべれない。それまでのワークの中で、一宮は幾度となくそのことを口にしていた。そして台本を持った途端に、その”言えない”気持ち悪さを無視してしまいがちになるということも。
この参加者の言葉はまさに、その”言えなさ”への気づきだった。

少佐だと感じていないのなら、少佐だと感じられるようにしていきましょう、と、一宮がまた細かく想像をめぐらせるよう問いかけていく。そして今度は台本を持たずにやってみる。

彼の発する言葉は、圧倒的に変化していた。ひとりで台本を”読む”のではなく、相手のことをまっすぐに見て、受け取る。すると相手の方も肩の力が抜け、自然と対話が成立し始めていた。

こうした稽古を経て、最後、グループに別れてお互いにシーンを見せ合う。
どのグループも全く台本通りにいかなかった。しかし、そのことをあまり気にせず堂々とやっていることが、初日からの大きな変化だった。

一宮は締めくくりに、「できないですから、僕たちのやっていることは。後でまた台本読んでみて、あー、あれねー、言えないわー!(笑)って振り返って、またやってみればいいんです」と話した。


私自身、何度かワークショップに参加したり公演に出演したりというかたちで、これまでもPANCETTAに関わってきた。そのなかで、私も今回の参加者と同じように台本を捨てる瞬間が何度もあった。そうして自由になって初めて、自分にどんな感覚が足りないのかが分かり、それが「次はこうしてみよう」という挑戦につながるのも体感してきた。
今回このレポートを書くにあたって、参加者の様子をこれまで以上にじっくりと観察した。彼らに何か変化が起きるとき、”台本ではなく相手のことをきちんと見てみる”とか、”身近な感覚に置き換えてみる”とか、やはりそのときの自身の状態に応じた各々の挑戦があった。
そしてこのワークショップでは、そうした気づきや挑戦へのヒントがあらゆるところに散りばめられている。


これを読んで少しでも興味をもってくださったあなた。
ぜひ、実際に参加してみてほしい。
自分の身をもって気がつける何かが、きっとあるはずだ。

(文=山﨑千尋)


次回ワークショップは5月23、24日です。参加者募集中です。


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