死んだら消えるもの、残るもの

古本屋に行ったら『純粋理性批判』の下(上・中・下があり、家には上のみ)と、もう1冊、めちゃくちゃ面白そうな本を見つけて衝動買いしてしまった。

『自殺について』(ショウペンハウエル著、斎藤信治訳、岩波文庫)である。

第一章が「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」というタイトルなのである。
最高か?
そうなのだ。死んだ程度で人間の何かが失われる訳では無い。柳田国男は民間伝承を保持する無名の民のことを「常民」と呼んだが、名前を残していないからと言って人間ひとりを完全にいなかったことにはできないのだ。私は唯物論者の顔をした観念論者なのだろう。もうヘーゲルのことを笑えない。

読み進めると、カントやハイデッガーをリスペクトしていると感じる部分があり、ドイツ観念論にかなり入り込んだ本であることがわかった。やはりドイツ語を勉強せねば……そんなことを考える。ドイツ語を今から勉強したところで、進化し続けるAIによる翻訳にはかなわないであろう。学習速度が段違いに違うし、何より私が勉強している、したいと思っているのはドイツ語だけではないからだ。

でも、私は勉強がしたいな、と思う。
効率とかじゃなく、自分で考えて、著者の言葉選びに触れて、芸術作品に触れた時のようなときめきを感じてみたいのだ。新しいことを知る、学ぶっていうことは、心を掻き乱す芸術に触れることに近いのかもしれない。それは自己の内面世界の破壊を含むからであろう。物理学のように原理だけ抽象化して見れば筋トレと同じだ。デカルトの有名な言葉ではないが、たとえ私が死んで何も残らないとしても、今ここで私が勉強したいと思っている気持ちや、掻き乱された心の存在だけは本物だと信じて疑いたくないと思う。

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