バベルの塔は目に見えない

同じ母語を持つもの同士で言葉が通じて、同じ概念を共有できるのって奇跡に近いと思う。

ウィゲントシュタインは、その著作『哲学探究』の中で、会話とは言語そのものの意味ではなく、日常生活を通して学ばれるルールに沿って展開されているゲームであると語った。言葉の意味そのものではなく、生活の中で必要とされるからこそ、道具として会話が意味を成すものであると。

詳しいことはもっと詳細に学んでいる人に任せるとして、こんな話もある。旧約聖書の中に記述がある「バベルの塔」だ。人間が天まで届く高い塔を建設しようとしたため、神が人々の言語を分かち塔を建設できないようにしたという逸話だ。人間の思い上がりを戒める意味と、言語がなぜ細かく分かれているのか説明しているとされている。

私は人の話を1回聞いただけで理解することがあまり得意ではないようだ。少なくとも1回は聞き返してしまう。ASDの症状かもしれない。脳みその中に相手の言葉が入ってくる時、カタカナというか、曖昧模糊とした記号で流れ込んでくるのである。もちろん話し方の癖がわかっている知己とか、その道のプロの話はそうでもないが、一般人の話し言葉はまずカタカナ入力されるのである。

これらのことがあるため、一般人が1回言葉を聞いただけで同じ概念を共有し、ひとつの目的に向かって行動できるということが本当に奇跡だと思っている。人間は所詮サルだ。言葉を操り道具がいくら発展しても「ラップトップ抱えた原始人」なのである。

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