言い訳を読んだ感想

ナイツ塙の本「言い訳-関東芸人はなぜM-1で勝てないのか-」を読んだので感想・

📊読もうと思った経緯

「人を笑わせる」ために人生をかけて考え続けた人たちが、読み解く分析本とか自伝が好きだから

「人生楽しく生きる」なら、「人を笑わせる」方法を知っておくといいんじゃない?って気持ち

📚概要

特に気になった点を僕の言葉でまとめます

🔼「客」「ボケ」「ツッコミ」の三角形を意識する

M-1で爆発的に跳ねたコンビ(アンタッチャブルやブラックマヨネーズ)は、客・ボケ・ツッコミの三角形を明確に意識している。自分が演じる役割を的確に演じているから面白い

奇怪なキャラクターを演じるボケに対して、ツッコミの「おまえ、それどう言うことだよ!」ってツッコミは三角形が意識できていない。ツッコミが客と同じ立場に立っているので客側は、現実に引き戻されてしまう。(フリートークやバラエティは漫才ではないので、その限りではない)

🤝ツッコミはボケとの信頼関係を示してあげる

ツッコミは相手を馬鹿にしたり、丁寧に過程を描く前に強い言葉で突っ込んではいけない。客が引いてしまう。必ず一度受け入れる様子を演じるのが大事。(南海キャンディーズは、山ちゃんがめっちゃ突っ込むけれど、相方を乏したり、「私怒り狂ったサイの役するから、あんた医者やって」というボケにもいったん乗っかる。)

💬「だからノリツッコミって文化があるのか」

🎙漫才は落語と同じ

漫才は、ネタの完成度を競い合う。つまり誰がやってもネタが完成していればそれなりに面白くなる。(水曜日のダウンタウンの「漫才のネタと同じ状況が発生したとき演じちゃう説」とかみてると、わかる)。それは落語や、日本昔話と同じで、完成度の高いものほど、誰がやっても(読み聞かせても)それなりに面白い。長い間、いろいろな人から語り継がれるネタを作るのが漫才

👅自虐ネタはネタではない

「漫才は落語と同じ」というように、誰が演じても面白い一つの演目である。そのためシステムの目新しさが評価の対象となることが多い。(オードリーのズレ漫才や、ナイツの言い間違え漫才、ハライチのノリボケ漫才、カミナリの強烈なツッコミの漫才など)漫才中に自虐ネタを入れ込む人が多いが、これは「誰が演じても面白いネタ」にはならない。(「俺はモテないんだ」「ハゲている」など)

自虐ネタなどの、その人が演じることによって生まれる面白さは、フリートークの場で輝く(バラエティや、単独ライブなど、その人が好きでみに来ている人が多い場所)

✍️感想

「三角形を意識する」って考えって、めちゃくちゃ大切だと思っていて、最近「冷めた立ち位置からのツッコミ」に辟易していたから納得感が強かった。

「システム漫才の怖さはアドリブに対応できないこと」を上げていたのも印象に残った。確かにナイツの漫才は噛んだり、飛行機の音がうるさいといった状態に対応が難しいけど、中川家のようなしゃべくり漫才は、アドリブに対応しやすい。(その点オードリーのM-1出場時の漫才は噛んでもアドリブをうまく対処したのですごい。本書でも紹介されていた)

自分が合っている笑い(演じている笑いではなく)を追求するのが大切で、その指標となるモノの一つが、「台本を何度も読み返さなくてはならないくらい覚えられないモノは自分に合っていない(可能性が高い)」ってのは、どの分野にも通じる話だと思う。

僕も、向こうに合わせてやるってこと結構苦手だし、結果的に長続きしているのは、自分が好きな方法で向いているやり方を見つけたものだから。

http://seidoku.shueisha.co.jp/1909/read03.html