死にたいの本当の意味

 唐突に、死にたいと口にすることがある。わたしを好いてくれている方々には申し訳ない話だなと思いつつ、まあわたしがそう思ってしまうこと自体は仕方のないことであるのでどうしようもない。ただ、死にたいというのは正確ではなくて、そこに適切な言葉がないから使っているだけのような気もする。紐解いていくとごちゃごちゃしてはいるのだけれど、いま改めてきちんと言葉にしておこうと思った。
 まず、死にたいと言ったときたいてい始めに感じているのは漠然とした不安。そしてその重さが苦しいということ。それから、その不安を避けたいという願い。
 たとえばこれがボードゲームなら、フェアプレーでは決してないが、勝ち目がなくなったところで「やーめた」を発動すればいい。あるいは、勝敗など気にせずとりあえず終わらせてしまえばいい。
 だが人生というゲームは。
 「やーめた」が通用しない。そりゃ一回寝て時間稼ぎをすることはできるが、起きたところでゲームは片付いておらず、中断したところからの再開を余儀なくされる。それから終わらせるというのはすなわち死を表している。ゲームを終わらせるのは簡単だが、自分の命を終わらせるのは簡単なことではない。
 死にたいというのはだから、この人生というゲームから降りたいという意味に近いのだと思う。このゲーム、勝ち負けはないけれど、それなりに楽に続けていくためにバフが多いほうがいいしデバフが少ないほうがいい。手札がデバフばかりになったとき、このままゲームが終わることがとても怖くなって降りたくなるのは自然な感情なのではないか?

 死にたいというのは正確ではない。だが人生を辞めたいとは思うことがある。今はたまたまそれが怖いから踏みとどまっているにすぎない、と思ったりもする。もちろん世界が美しいことを知ってはいるつもりであるし願わくば体験したいとも思う。でもそれが届かない淵に立ったとき、わたしの心を動かすのは恐怖だけ。いつか、人生を続けることへの恐怖が勝ったら、わたしは命を終わらせるかもしれない。
 死にたいと思うのはまだ死んでいないからで、死ぬことを怖がってもいるのかもしれない。だから、誰かに死にたいと言えることは、ある意味で救いなのだろうと思う。死にたいに込められた意味が助けてであることも、きっとあるのだろう。少なくとも今のわたしにとっては、助けを求める声でもある。
 追い詰められているという意思表示も兼ねている気がする。デバフを取り払ってはくれないか、バフを授けてはくれないかという交渉の意味もきっと含まれている。
 死にたいはきっと死にたいだけの意味ではないのだと、いつかのわたしを救えるようにここに記しておく。

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