イジメというリンチを無くせない理由~心の空洞化を埋める暴力

(かわせみ亭コラム#19)
 空洞化は何も産業構造の空洞化だけではないであろう。産業構造の空洞化と連動して、日本人および日本の組織における心の空洞化も進んでいる。飽くなき利の追求は産業構造のみならず個人および組織共同体の心の空洞化も招いている。空洞化する前にその心を満たしていたものは、日本の伝統的な倫理感や道徳感などである。これらの心の空洞は決して「利」によって満たされるものではない。過去千数百年間において、日本人やその共同体の心の中核を「利」が占めたことは、ただの一度もなかった。ましてや我欲が生み出す飽くなき利の追求は仏教においては、餓鬼畜生道に堕ちたものといわれ、その者たちの行き着く先は地獄だとされた。また儒教においては「利によりて行えば怨み多し」ともいわれ、利の飽くなき追求は、我々人類の生存を危うくするということが長年の歴史的な経験則からも自覚されてきた。

 今日の日本の学校や職場における「イジメ」とい名のリンチは一向に収まる気配がない。いくらカウンセラーなどの相談窓口を作っても、いくら教育委員会や教師たちによる監視の眼を厳しくしたとしても、ほとんど効果は期待できないであろう。イジメの現場を見かけて、それを止めたとしても、その場は収まるかもしれないが、人目のない所で必ずまた行われるに違いない。 「イジメ」「パワハラ」「セクハラ」とかのようなカタカナ言葉での表現は、その陰惨さを覆い隠す役割を担った共犯者的な表現と言える。 今日の日本における「イジメ」とい名のリンチが頻発する理由は明白である。個人あるいは集団における心の空洞化が問題の真因である。もともとその空洞を満たしていた日本の伝統的な倫理感や道徳感の喪失が真因である。
 子どもたちの集団であったとしても、それはいわば一つの共同体社会と同じものである。一個の共同体社会において健全な生活を成立させるためには、一貫した倫理感や道徳感に基づく行動規範というものが必要とされる。共同体における精神的空間を制御する行動規範というものが失われたあとの空間に入り込むものは、常に昔から、無定見な有形無形の暴力主義であったことを思い出すべきであろう。この暴力主義は最初に大人の世界から始まり、いまや幼い子どもたちの世界をも破壊し続けているということである。

 人間社会はその国の文化を母体とした行動規範を必ずもっている。行動規範をもたない共同体は早晩組織としての形態を保てなくなり崩壊する。学級崩壊とはまさにこの状態を的確に表現している。「イジメ」の根本的な原因は、その集団における行動規範の喪失にあると言え、「イジメ」を撲滅したければ、日本の伝統的な行動規範を取り戻すか、または新たな行動規範を創造しなければならない。教師一人では何もできないとか、一校長では無力であるとか、一地方の教育委員会ではどうしようもないなどと考えてはいけない。一個人から日本の伝統的な行動規範のうちの最大の特徴であった「共同体の中から一名たりとも犠牲者を出さずに、共に困難の中を生き抜く」という精神を取り戻す必要がある。
 しかしながらこの共助の義務は常に相互義務的であり、優位の者から下位の者に一方的に押し付けるべきものであってはならない。上なるものは下位なるものよりなお一層の義務の履行が必要である。この相互義務の思想は、日本の伝統的な行動規範であると同時に、欧米においてもノブレス・オブリージュの精神、すなわち「優位の者こそ大きな義務を負う」という重要な徳として知られている。 日本の共同体における優位の地位にあるものは、日本の伝統的な行動規範である、「弱きも強きもともに、その生涯を生き抜く」ことや、人を思いやる『仁』、私利私欲に捉われない『義』、敬意をもって他者と接する『礼』、知恵を重んじる『智』、誠実さである『信』に基づいて行動することや、亡くなった祖先を愛し、すべて生きとし生けるものに魂を感じ、あらゆる自然の恩恵に感謝することや、仏教の慈悲の心の実践を率先して行う重大な責務があることを忘れてはならない。
 本来のエリートとはこのような重責を担い、国難を突破する者たちのことであって、自分の栄達を第一優先とするような者たちのことではない。
(参考文献:小泉八雲著 『日本』、p98、[地域社会の祭])

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