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インナーチャイルドを癒す旅 機能不全家庭 ぱむの過去と再生について

この記事を傷ついたままの自分の心に捧げる。願はくは、過去を清算し、"今"を取り戻すことができるように。このブログがこの世界のどこかの、アダルトチルドレンにとって何かのきっかけになるのであれば嬉しい。

インナーチャイルドを癒す旅 "プロローグ"

僕は機能不全家庭の家に生まれた。僕は30代の社会人。子ども時代に傷ついたまま、自分の中にずっとある満たされない思いを感じている。

ずっとずっと生きづらいと感じていた。

ずっとずっと苦しいなと思っていた

"大人"と呼ばれるようになって10年。僕は児童福祉施設の職員をしている。勤続10年になった。

子どもたちは日々色々なことを経験している。笑ったり、泣いたり、怒ったり沢山の顔がある。

"今を一生懸命に生きること"

それがどんなに尊くて素敵なことか教えてもらった。そして、それを守ってあげたいと強く思う。だから僕は自分の中にある過去を癒やしたい。

目の前にいる子ども達と一緒に過ごす中で、自分の中の満たされない思いを無視することはできないと感じたからだ。

置き去りにされた、自分の中の満たされない思い。それを浄化していけば今よりもっと自分のことを大切にできるし、何より真の"援助者"としていられると思う。

"インナーチャイルドを癒す旅"

これは難しく険しい道だと思う。でも取り組んでいきたい。未来の自分のために。そして目の前にいる子どもたちのために。​

いつまで続くのかわからないけど、この世界で同じように苦しんだり、独りぼっちだと感じている人の力になれるような発信をしていきたいと思う。

①インナーチャイルドを癒す旅"小学生時代"

1.父親と母親の不仲
2.ヤブ医者
3.家庭内の板挟みの自分と嘘
4.学校でのイジメと不登校
5.非行

1.父親と母親の不仲

父親と母親は、顔を合わせれば口論をしあった。二人とも怒りの表現が暴力と暴言だった。

母親を殴る父親。"誰の金で飯食ってると思ってるんだ?!"というシーンを覚えている。

母親も癇癪持ちで怒ると手がつけられず、父親が言葉で責められるシーンがよくあった。

母親の暴言に我慢をずっとしている父親が耐えきれず爆発してケンカという構図だった。

僕はいつも二人の間に挟まれていた。ケンカが起きた後はどちらかの愚痴を聞く役周りだった。

"お父さんとお母さんどっちが好き?"

僕はどちらにも"好き"といった。そのせいで僕は父親に、"お前はコウモリみたいなやつだ"と言われたことがある。

"卑怯なコウモリ"を知っているだろうか?動物と鳥のどちらにも取り入る、コウモリの話だ。

ある時は父親の味方。ある時は母親の味方をしている僕は、卑怯なコウモリと一緒にされてしまった。

ある時、怒鳴られる父親の味方をして幼い僕は母親に"そんな風に怒ったら鬼ババアだよ"と言ったことがある。

それから何日か母親はご飯を作ってくれなかった。妹たちにはご飯があったのに、当時僕が好きだったパンを台所から投げつけて、"これでも食べてればいいじゃない"とよこした。

あの時の母親の顔と声は今でも覚えている。

いつも家庭の中はイライラしていた。いつ爆発するかわからない時限爆弾を見ているような毎日だった。

たまに父親が笑う時や、母親が笑う時は安心した。笑顔を見ると嬉しくなったのを覚えている。

2.ヤブ医者

僕が小学生になった頃に1人の妹が亡くなった。母親は、その頃から、あるヤブ医者を信じるようになった。

都内某所漢方取扱病院(自由診療)
〈診察内容〉
・Oリングテスト
・気功の布貼付
・電磁波ブロッカー所持
・食べ物制限
・体の写真で診断
患者が手の指で輪(O-リング)を作り、診断者も指で輪を作って患者の指の輪を引っ張り、輪が離れるかどうかで診断する。この時、患者の体の異常がある部分を触ったり、患者の空いたほうの手で有害な薬や食物を持つと、患者の指の力が弱まりO-リングが開くhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/O-リングテストより引用

通院すると上記の様な診断方法で、自分にあった薬や合わない薬を処方される。

先生の気を封じ込めた布を体のツボに貼り、それを押すことによって健康になれる"気功の布"と呼ばれるものを体の至る所に貼られた。

また、有害な電磁波から体を守るブロックみたいなもの(電磁波ブロッカー)をお守りの様に持つことを強要された。

これらの"気功の布""電磁波ブロッカー"(以下謎アイテム)は単価が高く一度無くすと気が狂ったように母親は暴れていた。

探して見つかるまで帰ってくるなと怒鳴られ、心細い思いをしたのを覚えている。

極め付けは写真を送れば、体内にいるウィルスがわかり適合する薬(漢方薬)を処方してもらうことができることだ。

食べ物制限もあり、牛乳や肉を摂取することを禁じられた。学校の給食で出さないように働きかける徹底ぶりだった。

よくは覚えていないのだが、診療代や妹2人分×30日分の薬代、謎アイテム代が諸々込みで一回の診察が10万を超えていたのではないかと思われる。

母親は恐らく今でも信じている。しかし、僕は詐欺だと思っている。まだ小さかった僕に、平気で嘘をつく大人が周りに沢山いた。

"変だ"と子どもながらに感じていた。それを"信じろ"と強要されたのである。"謎アイテムの所持"は後述するイジメに拍車をかける結果になっている。

3.家庭内の板挟みの自分と嘘

元々の両親の不仲に、ヤブ医者は火に油を注ぐ様なものだった。

父親は子どもに、"あの医者に行ってはいけない。もし行ったらお父さんに教えてくれ"と話す。

母親は、子どもに"欲しいものを買ってあげるから、一緒に行って。お父さんには内緒よ"と話す。

"病院に行ってないフリ"を強いられた子ども達。

何をしていたのか、嘘までつくことを強要された。

時に病院通いがバレたら、父親は癇癪を起こし漢方薬を洗面所にぶちまけて母親に怒鳴った。

泣きながら薬が捨てられるのを阻止しようとしていた母親。それを、力いっぱい振り解いた父親は怒りながらどこか外に行って長い間帰ってこなかった。

"なんでバレたの?"と子どもに聞く母親。僕は知らなかった。知らないし怖かった。罪悪感を感じた。

"母親が怒られたこと"

"父親を裏切ったこと"

上手くやらなくちゃいけなかった。怒りの爆発が起きることを阻止しなければ、僕は嫌な気持ちにさらされるのだ。誰を信じたらいいのかわからなかった。

4.学校でのイジメと不登校
小学校低学年の頃、イジメにあった。謎アイテムのおかげで、"触ったら腐る"、"汚い"…そんな言葉をかけられた。友だちと呼べる友だちもおらず、家庭内の不和もあって僕は学校をズル休みするようになった。

イジメは2年くらい続いたと思う。ある日を境に終わった。堪らなくなった僕は、担任の先生に話をしたのだ。先生はイジメについて"いけないこと"として、僕を黒板の前に立たせてクラスみんなに説教をした。

一通りみんなに説教をした後、"パムくんにもイジメられる理由があるんです!"と言われた。一瞬、どういう意味かわからなかった。ろくに、話も聞かないでいきなりそう決めつけられてしまった。

"嫌なことは、嫌って言いなさい"とかなんとか言われた気がする。…言えてたら苦労しません。みんなの前で泣きまくって"ごめんなさい"と言ったのを覚えている。

それからは、友だちと呼べる存在は少なく、家庭での居場所も不安定なまま拠り所がなかった。

5.非行

初めて人の物を盗んだのは6歳の頃だった。

ガチャガチャが流行っていた頃、僕もそれなりに沢山の小さな人形を持っていた。

初めてできた友だちの家に行った時、その友だちが持っていた"モスラ"の人形。色付きで綺麗な人形だった。

一目見て"欲しい"と思った。すごく覚えてる。その日、初めて人の物を盗んでしまった。

それが始まりだった。

欲しいものはなんでも手に入れた。人形・カード・ゲームカセット・マンガ。

羨ましがられた。色んな物を持っていれば友だちができた。一緒に遊ぶことができた。

だから止まらなかった。"最悪な選択肢"だ。30を超えた今でも、ずっと後悔している。6歳の時から中学2年まで。ずっと人の物を盗ってしまうことを繰り返した。

最初は数枚、数個だった盗品が、狙った人のバックやケース毎になるのに時間はかからなかった。

小学校高学年の頃悪い仲間ができた。当時流行っていたトレーディングカードをグループで盗み山分けするという仲間だ。

どう始まったかわからない。でも"お前がいればみんな喜ぶ"と言われて嬉しかった。"友だち"ができたと当時の僕は感じていた。その繋がりのために更に、人の物を盗ってしまうことが日常化した。

親の財布から金を抜き取ってもいた。みんなで遊ぶためだった。最初は小銭。次は千円札、次は万札。

5年か6年の頃、夜中に父親と母親に叩き起こされた。"誰が働いて稼いだお金だよ?!"と怒鳴られながら顔が腫れるまでベルトや素手でぶん殴られた。

何度か学校の先生にもバレた。親に殴られたり、バレたとしても、盗み癖は治らなかった。もっとバレないようにしなきゃいけない、と思っていた。

今思えば病気だったように思う。止まらない盗み癖とそれを守るための嘘。それが僕だった。

②インナーチャイルドを癒す旅"中学時代"

1.非行の終わり
2.祖父母宅同居
3.進学

1.非行の終わり

中学に上がっても、登校拒否と非行は続いていた。

中学1年生の成り立て1週間であるゲームカセットを盗んだ。その次の日学校を特定され、先生に話を聞かされた。

いつものように、盗ったことを否定した僕はそれ以上追求されることなく日常に戻った。

行きたい時に学校に行き、行きたくない時は仮病を使って学校を休んだ。ゲームやマンガ、テレビを一日中見て過ごした。

それから一年半経った中2の秋頃、またゲームカセットを盗んだ。自転車のカゴに入ってるバックを抜き去って逃走した。

数日経ったある日、学校から呼び出しをくらった。仮病を使って休んでいた日だった。"体調が大丈夫なら今すぐ学校に来なさい"とのことだった。

その日、中学に上がってからの窃盗の2件を追求された。逃げられるものじゃないほどの圧力で先生は言葉をかけてきた。言い逃れができない感じがして、窃盗を認めた。

担任の先生が、"本当にあなたはバカだ"と言った。そして、"この一年間ずっと心配していたんだ"と泣いた。

僕も泣いた。怒られると思っていた。耐えれば過ぎ去るはずの時間だった。そんな思いとは裏腹に、優しい言葉だった。初めて反省した。"いけないことをした"と初めて心から感じた。

あれから、僕は人の物を盗るのを辞めることができた。

2.祖父母宅同居

物を盗ることを辞めると誓ったあの事件が終わっても、相変わらず家庭内のピリピリした状況は続いていた。

その状況や僕の非行、登校拒否を見かねた父方の祖父母が僕を引き取ると申し出てくれた。学校の転校はしないまま、少し離れた場所から学校に通うことになった。

環境が少し良くなった分、高校に進学する気持ちになった僕は、勉強をするようになった。

小学校低学年の頃から続けていた登校拒否だったが、中3の1年間は無遅刻・無欠席で学校に通うことができた。

3.進学

単純に、"変わろう"と思った。変われる気がした。

相変わらず友だちもいないし、両親は不仲だったけど進学を目指すことができた。

勉強を続けて偏差値が高いわけではないけれど、公立の学校に入ることが出来た。

③インナーチャイルドを癒す旅"高校時代"

1.父親の鬱・退職
2.再出発​
​3.父母別居
4.認められない日々
5.進学か就職か
6.親との訣別​

1.父親の鬱・退職と同居

僕が中学3年の夏に父親が鬱になったらしい。それまで勤めていた会社を退職した。退職の理由が鬱だと明かされたのは随分経ってからだったが、"会社でいじめられた"と子ども達には説明があった。

父が退職になると、父・母・妹2人も父方の祖父母と暮らすことが決まった。その際、母のヤブ医者通いは、止められた。父・母も折り合いが悪かったが、父方の祖父母と母親も折り合いが良くなかった。

そんな状態からのスタートである。上手くいくはずもなく、ピリピリした状況に舞い戻ってしまった。

2.再出発

そんな中でも、僕は目標だった高校生になることができた。電車で通った。家にいるより断然良かった。学校を居場所にすることを選んだ。

委員会や部活に積極的に参加した。友だちもできるようになった。勉強もできた方ではなかったが、友だちと一緒に頑張ることができた。

委員会や生徒会活動に顔を出すようになり、先生とも仲良くなることができた。小学校や中学校からの僕からは考えられないことだった。

生徒会活動が楽しすぎて生徒会長にまでなった。

3.父母別居

全部の家族が、揃ったのも束の間。母親が一番下の妹を連れて出て行った。"東京じゃ仕事できないから"とよくわからない理由で出て行った。一番下の妹は訳がわからずについて行った。あれから一緒に住んだことはない。

4.認められない日々

父親は日に日に鬱が悪くなっていった。仕事も上手く決まらず、昼間寝ていた。そんな父に祖父母は怒っていた。僕は、それを見るのが嫌だったから家にいるのを辞めた。極力学校にいれるようにした。

あまりに帰りが遅いので門限を決められた。"お前は悪いことをするから早く家に帰ってこい"とのことだった。

学校と家庭で僕に対しての評価がまるで違った。ただ苦痛でしかなかった。

よく、"お前なんか"と卑下された。辛かった。変わったし、頑張ってるのにそれを見ようともしない親に怒りが溜まりまくっていた。

5.就職か進学か

家を出たかった僕は就職一択だった。何がなんでも家から早く出なきゃいけなかった。そう感じていた。担任の先生に相談した。初めて家のことも含めて相談した。

"私はそれでも、なんでも一生懸命のパムは、進学した方がいいと思っているよ。もしも、進学をするって決めたらパムは何がしたい?"と言ってくれた。それを考え抜いてからでも就職は遅くないということだった。

嬉しかった。あの人がお母さんだったら良かったのに。だから沢山考えた。めちゃくちゃ考え抜いたあと、"福祉"に興味があることに気づいた。

"やるなら子ども関係の仕事を"

そう決めて進学することにした。

6.親との訣別

"大学に行きたい"

そう親に話した。

"お前を大学に行かすなんて金をドブに捨てるようなもんだから就職しろ"そう言われた。

もう我慢の限界だった。殺してやりたかった。本当に殺してやりたかった。何にもわかってくれない親が憎たらしくて仕方なかった。

その日、初めて親を殴った。我を忘れてたら本当に殺していたかもしれない。もう、家をでる決意をした。

担任の先生に相談した。

"家出ないと人生が終わるから、家出するよ"

"パムなら大丈夫だから好きにしな"と言ってくれた。

そう言った先生は、僕のことを全力で守ってくれた。高校生が親から離れて暮らすことはできないことになってるから、並大抵のことじゃなかったろう。

色々な方面に掛け合ってくれた。もちろん、僕の父親ともきちんと話し合ってくれた。

色々なことがあって信頼できる友人宅に高3の夏休みから高校卒業まで居候することになった。

進学に反対する親の引き出しから、実印を取り出して奨学金の申請をして家出した。半年間だったが、あの期間がなければと思うとゾッとする。大学に受かってもいないままの状態だったが、家にいるよりかは良かった。3ヶ月後大学に受かり、無事に受験を終えることが出来た。

④インナーチャイルドを癒す旅 "現在"

大学の4年間は凄まじく苦学生だった。

なんとか卒業して、早10年。

僕は今、鬱を患っている。

働きながら、病気をコントロールしている。

思えば、ずっと鬱だったのかもしれない。

インナーチャイルドを癒すと決めるまでに、途方もない時間が経ってしまった。

僕には今やりたいことがある。

1.機能不全家族で育った僕の出来ることを模索する。
2.過去の関係による、生きづらさとその解消方法の発信。
3.過去のトラウマはありつつも生きていけいることの発信。
4.孤独だけではないこと。希望・愛があることの発信。

この4つを、大切にしながら活動していきたい。

どんな風にしたらいいかわからない。

取り組みながら、僕を助けてくれた愛のある人たちに返して行けたらと思う。

"有難い"その一言に尽きる。今日まで生きてこれた。

しかし、一方で途方もない怒りが僕の中にあるのも事実なのだ。

えらく長い、自己紹介になってしまった。

少しずつ、模索しながら進めていきたいと感じる。

⑤インナーチャイルドを癒す旅 終わりに

パム@インナーチャイルド

上記はTwitterのアカウントです。

インナーチャイルドを癒す。

そのための活動が自分だけじゃなく、

人に広がっていけたらと思っています。

傷ついたからこそ、愛を知ることができるのであれば

僕は負の連鎖を止めたいと思っています。

共感してくださる方、そうでもないけど興味のある方、仲良くしてください。

よろしくお願いします。

それでは、また次回。




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