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ふるさとは〜 (97)

”ふるさとは遠きにありて思ふもの”

 詩人・室生犀星(むろうさいせい)の「小景異情」のその二に書かれている有名な詩歌の一部である。故郷というものはそこで思い感じるものではなく、遠くから思うものなのだよというような意味だ。この後に”そして悲しくうたふもの”と続くが、そこからは国語の授業でもないので省こうと思う。とはいえ省くと詩の意味が一部しか伝わらないのだが。 きっと室生犀星という人は、故郷に帰っては来たものの、早く東京に戻りたいと願った方の人なのだろう。それはどちらが良いとかではなく、故郷を出たものの気持ちとしては、仕方がないことではないだろうか。筆者(紛らわしいが談吉さんのこと)も故郷を出て何年も経っているので、当たり前のように実家に自分の部屋は無い。それどころか物置き部屋のようになっている。生活環境の根本が違うのだから、自分の居場所がないのは当たり前である。当たり前を当たり前と捉えず、向き合って詩にすることが、詩人として正しい心の有り様なのだろう。

”ふるさとは遠きにありて思ふもの”

それにしてもこの一文、違和感を感じないだろうか。昔の人は何も感じなかったのか、それとも現代が敏感なのか、どうもしっくりこない。何も感じない方もいるかもしれないが、煮込む日々の読者ならば、この違和感を敏感に感じ取っているはずである。これは何なのだろうかと。答えを出そう。いや、とりあえずの答えらしきものを述べさせてもらうと、主語である。自らの境遇に当てはめるのは構わないが、主語が大き過ぎないか。

詩なのだから主語など主観で宜かろうという意見もある。それはそれで受け入れよう。しかし多様な現代においては主語の大きさは違和感の塊なのだ。一昔前、主語を大きくするのが流行りであった。みな何らかのものに答えを出したがっていたのだ。落語は人間の業の肯定だ、芸術は爆発だ、不倫は文化だなどなど。もっと昔になると”人間は考える葦である”、主語は人間なのである。皆が皆それを受け入れた訳でないのだろうが、現代ほどの違和感は感じていなかったのではないだろうか。しかし多様な現代において、主語を大きくすることに違和感を感じないならば、感覚の成長を何処かに置き忘れた可能性があると言わざるを得ない。最近の若者は、国民は、日本人は、男は、女は、アメリカザリガニはなど、大きな主語を使う場合は、少し慎重に考えることをおすすめしたい。

自分にとって故郷とは何なのだろうか。少なくとも遠くに思うだけのものではないし、まして悲しく歌うものでもない。景色を観たり、美味しいものを食べたり、落語を含め土産話をするところである。筆者が室生犀星ならば、こう書くだろう。

ふるさとを遠きにありてなほ思ふ

みんなおかしく笑うばしょ


この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com