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雨のち晴レルヤ (5)

前回の記事でニュージーランドの大地震について少し触れたが、今回はやはり3.11東日本大震災について書きたい。
(長文となります)

私の大学時代の友人に福島の双葉町出身の女性がいる。今は東京で結婚し、立派に2児の母になっている。

その彼女と数年前、呑む機会があったので自然と故郷の話になった。

「私の故郷はあるんだけどもうないんだよね。たぶん自分が生きているうちに帰る事はできないだろうし、心に故郷はあるし地図には故郷はあるから、、故郷はあるけど、、、やっぱりもうないんだよね、、、。だけど、私は今、凄く幸せだよ」

そう話した時の友人の顔が忘れられない。

「10年」と書かれるが、それが「7年」だろうが「12年」だろうが「26年」だったとしても、これから先もずっとずっと忘れてはならない事である。

2011年3月11日東日本大震災が発生した時
私は空の上にいた。

翌月で入門から1年を迎える、まだまだ落語家としての修業が始まったばかりの頃である。

東日本大震災が起きたのは富山での落語会へ向かう機中であった。

師匠が前日入りの為、私1人で後入りで富山へ。更に翌日兄弟子が1人合流予定であった。

逆算するに地震が起きたのは飛行機着陸の20分ほど前だったと思う。

富山きときと空港へ着陸した際CAさんから地震発生のアナウンスはなかった。
後から想像するに関東もかなりの揺れがあったので相当パニックが起きていたのだろう。管制塔や航空会社などもその時、大変だったと想像できる。

その当時、まだ私はガラケーを使っていたので空港に着き携帯電話の電源を入れても今のスマホのように即通知が入ってくるわけでもなく、何も知らず気がつかずに(恐らくほとんどの乗客)富山に着きボーディングブリッジを渡り始めた。

春がもうすぐそこだというのに富山は時折みぞれが降る曇天。

天気のせいかなんとなく気持ちが塞ぎ込む中、頭の中では「寒そうだな」「今日もたくさん怒られそうだな」「落語ウケるかな」なんて事を考えていたと思う。

師匠の着物が入ったスーツケースの受け取りを待つ中、師匠に到着の連絡を入れた。
(交通、飛行事情で時間が遅れたりするため到着時には必ず師匠へ連絡する事になっている)

師匠へ何度電話をしても
「ツー、ツー、ツー」と話し中のような音がなり切断されてしまった。

「あれ?おかしいな。いつもならこんな事ないのに」と妙な違和感を感じつつ、変わらず電話は繋がらないので荷物を引き取り、迎えに来てくれていた富山のスタッフの方の車へ乗り込み助手席へ座るとカーナビのモニターに迫り来る津波の映像が映し出されていた。

スタッフの方が
「これは大変な事になった、、、」と震えながら言ってきたのだが、まだ私には何が起きているのかピンとこない。

目の前に映し出されている映像は日本なのか日本ではないのかリアルタイムなのか過去の何かを流しているのか。

私が
「これは、、、一体、何が起きてるんですか?」
と尋ねるとスタッフの方も驚いた様子で

「太郎さん、なんもしらないんですか?」
「すみません、飛行機に乗ってたもので。何も情報がなく」
「さっき東北で大地震が起きたんですよ!今、津波が、、、」

この時に初めて私は地震が発生した事に気がついたのである。

師匠に電話が繋がらないわけも、空港に着いてからの違和感も全てここで分かったのである。

押し寄せる津波の映像を固唾をのみながら見つつ会場に着くと、スタッフの方々達がまず
「太郎さん、ご実家は大丈夫なの?関東も大分揺れたみたいだから」

少し後に入った師匠にも
「まず、実家が大丈夫か確認しなさい」と声をかけて頂いた。

私の実家は埼玉なのだが電話をすると母親が
「大分物が落ちたけど、大丈夫。あなたは大丈夫なの?」

富山にいる事を説明すると

「こちらは心配いらないから、とにかく師匠とお客様の為に一生懸命やりなさい」

母はいつでも気丈である。

2時間後に開演だったのだが、あの落語会はそこにいた誰もがどのような気持ちで迎えたらよいのか分からなかっただろう。

笑わせてよいのか、笑ってよいのか、笑っている場合なのか。

お客様、スタッフ、私、そして師匠ですらそう思ったはずである。

それでもなんとか無事、落語会を終え
翌日合流するはずだった兄弟子は当然富山に来る事はできず

師匠と私の2人で翌日の落語会もなんとか終え、東京に戻ったのは飛行機などの都合もあり地震発生から3日後の3月14日の事であった。

そこから当然ではあるが軒並み落語会は中止、延期となる。

日本が一つになり被災地への支援、各チャリティイベントなどが始まったその年の8月。

岩手県の北上市にある、さくらホールさんが
岩手、宮城の被災地の方々をホールに招待するチャリティ落語会を行うので師匠に出演してほしい。という依頼があった。

震災から半年近く経ち、避難所等での生活は被災者の方々にとってかなりのストレスになっているという話も聞いた。

被災地の避難所から何台もの大型バスで300名以上の被災者の方々がいらしたのだが
このチャリティ落語会に開口一番として出演したのが私であった。

私→長唄の松永鉄九郎師匠→ジャグリングのダメじゃん小出先生→師匠
という休憩なしの90分のプログラム。

実はこの前日に宮城の気仙沼、陸前高田、宮古、釜石。実際の被災地を我々出演者は主催者によって案内された。

「ニュース」で「映像」で見てきた光景を私は生で見た。

津波に呑み込まれ廃車となった無数の車が積み上げられている。

もとは賑わっていた漁港付近は整備は進んでいるが跡形もない更地。

一本だけ残った沿岸沿いの松。

津波で飲み込まれた時刻に止まって、半分埋まっている目覚まし時計。

我々も最初は案内してくれる主催者に質問する事もあったが目の前にある震災の爪痕をみていくうちに次第に言葉がなくなっていった。

それでも1番前向きに今の状況、これからの課題、そして明るい未来が来るために色々な話をしてくれた主催者の姿を今でも忘れない。

翌日、チャリティ落語会が岩手県北上市さくらホールで開催された。

先にも書いたが大型バス10台ほどが各被災地から被災者の方々を乗せて岩手県北上の地へ。

私の開口一番の「つる」で始まったチャリティ落語会であったが、今でも思うが本当にあの当時私は下手くそであった。(もちろん今もまだまだ)入門1年半、毎日毎日怒られ、下手くそすぎる落語。

それに正直に書くと私には勇気がなかった。

震災から半年後のこのチャリティ落語会の開口一番を務める勇気がなかったし、自信もなかったし、気持ちの整理がつかない部分もあった。

出番前の舞台袖に控えている時、関係者の方が「皆さん本当に楽しみで、被災地でも一日でも早くこの日が来てほしいと話していたし、皆んな本当に本当に心の底から笑いたいんだよ」

出囃子が鳴り響くなか私は高座へ向かう。
何度も書くが本当に拙い落語。

とにかく私の「やっている事だけ」で精一杯の落語。一席終えると鳴り止まない拍手が起きのだが更に1番驚いた事が起きた。

舞台袖へはけていく前座の私に向かって客席から
「本当にありがとう!」
「面白かったよ!」
「頑張ってね!」
「ずっと応援してるよ!」
という無数の声がかかったのである。

私には何が起きているのか分からない。

書き方は非常に難しいのだが
「頑張ってください」の気持ちを届けに来た人間が、1番大変な思いをされている方々達にもの凄い声援を頂いている。

これには舞台袖にいた師匠も驚いており
「お前はこれからの落語家人生において今日、物凄い経験をした。絶対にこの経験を忘れるな。絶対に。」

それでも情け無い話、私はそこからの楽屋仕事、下働きだけで頭が一杯一杯になっていた。とにかく一日をこなす事だけで大変であった時である。

鉄九郎さん、ダメじゃん小出先生、師匠。
そこからのプログラムは圧巻であり、皆さんが本当に笑顔で楽しんでいる。

そして師匠、志の輔が落語をしている時
お客さんのほとんどが笑いながら泣いていた。

師匠は新作の「親の顔」

それを聴いて、笑いながら泣いている。

前座ながらにも分かった。
笑いすぎて泣いているのではない。いろんな想い出、本当にたくさんの感情が今聴いている皆様に押し寄せているんだと。

師匠の一席が終わり客席の拍手が暫く鳴り止まなかった。緞帳が下がっても拍手は暫く続いていた。

我々一行はあくる日、北上川で開催される花火大会に招待された。被災者の方々も招待されている。
開催も危ぶまれたそうだが、復興への礎のイベントとして開催。

花火が打ち上げられる1時間前に豪雨になり誰もが中止と思ったが開始15分前に雲一つなく晴れ渡り川沿いには数千人の人々。
花火が打ち上あがると、所々から歓声が上がった。

暫く花火が打ち上がると
特別に設けられたコーナーへと花火大会は移る。

「慰霊花火」である

一つ一つ、被災者の方々が被災で亡くなられた家族、友人、知人、恋人へ向けての言葉が読み上げられ花火が一発一発打ちあがる。

誰もが「会いたい人」へ想いを馳せ、そして大きな花火が打ち上がっては残像を残しつつ夏の北上の夜空へ消えていった。

私は二ツ目に昇進し今現在、その北上さくらホールの小ホールで2年に一度独演会を開いている。

あの時のチャリティ落語会のスタッフの方の1人が、「太郎くんとの縁も出来たのだから師匠とは別に独演会をやろう」と声をかけてくれた。

私の独演会に毎回150人近いお客様が来てくださる。

その第1回となる2016年の公演。
私は3席の落語をやった後、最後の挨拶で先に書いた2011年のチャリティ落語会の事を話した。

あの時、被災者の方々が私に向けてたくさんの声をかけてくれた事を。

そして、私はそのチャリティ落語の話しながら泣いていた。
自分でもビックリした。高座で泣いたのは後にも先にもあれが最後である。

あの時の感謝の気持ちを伝えつつ泣いていた。
もちろんその会にあのチャリティ落語会にいらした遠方からお見えになった被災者の方々はいないのだが、あの時の感謝を2016年になって初めて言えた時自然と泣いていた。

お客様もビックリしただろうと思ったが、お客様も泣いており、そしてなんだか恥ずかしくもなり最後挨拶が終わり袖へ引っ込むとスタッフの方々達が泣きながら拍手で迎えてくれた。

これからも、私は落語や言葉を通してでしか何かを伝える事はできないであろう。

被災者の方々が今も私に教えてくれている。
明けない夜はない。
抜けないトンネルはない。
止まない雨はない。
と。

私は今年も東北の地へ向かう。

という、今回のお話。

この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com