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桜の散るころには(116)

自分のことは自分が一番わかってるんだよ。嘘である。この台詞を言っている時は往々にして、自分はおろか周りも見えていないものである。推測だが唯一の例外は寿命に関してではないだろうか。病室のベッドで桜の木を眺め、「あの桜の花が散るころには生きていないだろう」などと言う。これは自分の寿命を悟っているからで、この時ばかりは周りがいくら言ってもしょうがない。専門家である医者だけが非常に客観的に判断しているのは間違いない。つまり心身が元気な状態の場合、自分で自分のことを理解するのは至難の業である。よほど普段から客観的に自己を見つめて分析をしていなくては出来るものではない。

最近、筆者は早口であると気が付いた。え、今更と思うかもしれないが、まさかの今更である。おそらくオタク特有の早口で喋る癖みたいなものに立川流の早いテンポを重ねたものだから、気付かないうちに早口に拍車がかかったのであろう。と、なるとだ。自分で喋りながら頭の中で、”あ、今のちょっと早かったかな”と思った時など、早過ぎるを通り越して異常だったのではないか。もはや早口ではない、早早口もしくは激早口、いや、激口である。そういえば声を張らない普段の会話で、相手が聴き取れないことが多々ある。これは北海道由来のくぐもった喋り(加藤浩次や大泉洋がわかりやすい)に早口が加算されているからである。さらに筆者は常識ぶっているが脳のつくりが独特で、主語が少なく会話があちこち飛ぶタイプなので、もはや謎の早口、謎口になっている可能性が高い。今まで会話してくれた方全てに感謝を申し上げる。

何故気付かなかったのか。思い当たる理由がちゃんとある。実は声を張ると一語一語はっきりと喋る方なのだ。さらに舌がまわる(物理的に)方なので、多少の早口言葉もスラスラ言えてしまう。さらにさらに前座の頃、下手なのはしょうがないが”お客様が不快でないように”と意識していたのでテンポを最重視したのもある。そのうえ立川流の落語家は半分以上が早口なので、多少早いくらいじゃ自分の早さには気付き辛い。何ならもっと早口の方もいるかもしれない。問題は早いは早いでそれが本人に合うか合わないかで、昔の談吉さんなら早口でも良いが、今の談吉さんに早口は合わないと考えている。

こんなに赤裸々に書いてしまって大丈夫なのか。しかも煮込む日々に。まあ煮込む日々読む人しか知らないし、そういう人には知っててもらっても良いし、たまには自分語りも良いのかもしれない。筆者は前座の頃から年々口調が変わっている。そういえば志ら乃兄さんが言っていた。「こんなに口調が変わっていく人も珍しい」と。きっとこれからもそうだろう。他の芸人さんとは違うカタチ、目に見え辛いカタチで変わっていく、そういうタイプなのだと今は思っておくことにする。自分のことも周りのこともまだまだわからないことが多いが、じゃあそのうちわかるのかというと、きっとこれからも何もわからないのだろう。せめて何年か後の桜の散るころには、多少はわかっていたいものだ。

この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com