見出し画像

どーしてBO-SAIやってるの?

みなさんこんにちは。東京事務所チーフの服酉です。

このコーナでは私が気になった「なぜだか防災のことをやっている」人たちに会いに行き「防災に携わるようになったきっかけ」「現在の活動」そして「今後の展望」などインタビューしていきます。記事を通じ今ご覧頂いている皆さんの防災活動において何かしらのヒントになったら嬉しく思います。 

初回のゲストは東京都豊島区にある防災公園「イケ・サンパーク」管理事務所 所長の村田尭弘さんです。

村田さん

村田さん(以下:村)
村:村田尭弘(たかひろ)です。年は31でして、1991年生まれです。


【プロフィール】
・年齢:31才
・所属:株式会社日比谷アメニス
・出身:大阪市
2014年に株式会社日比谷アメニス(造園建設業)入社以降、一貫して指定管理事業に携わる。これまで東京都立の公園、港区立の公園を担当し、現在は豊島区立の公園と3つを担当。現在はイケ・サンパーク管理事務所 所長を務める。
<大学時代>
・立命館大学法学部出身。政治・行政、特に地方自治体を中心に研究活動を行う。
国際ボランティア学生協会というNPO法人に在籍。全国各地の主に水害の救援活動に参加。東日本大震災が発災した当時、大学1年生で冬の南気仙沼に行きボランティアを行う。西日本では山口の豪雨災害や、京都でも防災計画などの活動に参加。


酉:村田さんは…子ども時代どんな感じだったんですか?
 
村:我が強くないところがあるのかなと。強いリーダーシップで「次は缶蹴りだ!」というようなタイプではなかったですね。そうやって遊んでいる子どもたちをよそに「アリの巣をほじったらどうなんだろうな」とか、自分の気になったことをやっていて。そしたら周りの友達が「何やってるの?」と集ってまってくれて自然と遊びがはじまるみたいなことが多かったですね。

休み時間も「僕は席立たない」みたいな。どちらかというと来てくれる友達と喋るみたいな。「来てくれなかったら来てくれなかったで、宿題やるし」という性格でしたね。感受性や共感性が高くて人の目や動きを気にしてしまうタイプなので「周りに良く思われたい」とか「悪く思われたくない」とかいった感覚は強い方だとは思いますね。

周りの人たちに「村田がいてよかった」と思われるように動いてしまうというか。

酉:そういった素養を持った村田さんですが、大学生時代には所属されてたNPO団体で限界集落に行かれたじゃないですか。その当時のお話を聞かせてください。

村:行ってた場所は新潟県の関川村というところなんですけど。

関川村

活動としてはNPOの歴史が長く10何年村に関わっており、基本的には村の方々がウェルカムな環境で自分達が行かせてもらっていました。なので「今年もありがとう」みたいな関係値でしたね。

酉:活動の中で特に印象に残っていることはありますか?

村:どちらかというと自分たちが活動はじめたスタンスが印象に残っていまして。活動がはじまったきっかけは関川村出身の学生が昔NPOに所属していて「自分の村が限界集落になろうとしているから何とかお祭り(大したもん蛇まつり)を継続開催できるように手伝ってほしい」というようなことだったんですね。

大したもん蛇まつり

学生の思いがプロジェクト化した団体だったんですが、代表がよく「村の葬式をあげに行く」とか「自分たちは村を救いにいくスーパーマンじゃない」とか「『人口増加』とかできもしない目標掲げんじゃねえ」など仰っていたのが印象的でしたね。

この村が遠くない将来無くなることをこちらは受け止めないといけないし、受け止められない村の方とコミュニケーション取らないといけない。「そんな状況だからこそ最後の最後まで楽しむような気概で行こう」「等身大で今できることをやろう」と伝えたかったんだと思います。

変に気張らず村のおっちゃんに普通に会いに行って「今こういう勉強しています」とか何気ない会話して仲良くなって「また来いよ」って言ってもらえたりする。祭りがなくても皆で旅行に行ってまた村の人たちに会いにいく。

その行動が村の存続に繋がっている・いないということは置いておいて、この活動を通じて学んだことが実は街づくりや地域活性の本質ではないかなと今も感じています。

酉:確かにそうですね。肩肘張ってこられちゃうと逆になんだってなっちゃいますもんね。
 
村:「僕らがいるので立て直しますよ」って言われてもすごくムカつくだろうなと、代表はそういうところをわかっていたんでしょうね。なので「俺たちは葬式をあげに行くんだ」とずっと言っていたと。

「究極的には他人事」であるという芯ですよね。ここをどうしたかいかは最終的に住んでいる人たちが決めることだし、自分の視点で出来ることのサポートはするけども「どっぷり反対側に立つべきではない」というか。感覚的な話ですけど。

酉:大切な話ですね。本当の自分が飲み込まれないようにバランスを保つというか。

村:やっぱり学生なので中には村のことが大好きになって村に就職した人とかもいたんですね。それはそれで凄いことですし、村人になって素晴らしいことだとは思うんですけど、全員が全員村人になっていく移住計画という話でもないと思うんです。僕はどちらかというと一歩引いた立場というか、プロとしてのお付き合いの方法を学んだということですかね。

酉:東日本大震災の支援も、水害系の支援もされていたかと思うんですけれども、災害現場で実際に体験された思い出に残っていることが何かあれば。
 
村:すごく強かったのは、東日本大震災の時の経験です。自分たちが行ったのが1月の末あたりでした。自衛隊の方々の遺体捜査が一通り終了した南気仙沼の現場に乗り込んで。そこで圧倒的な無力感を感じました。

災害写真データベースより引用

どこを見ても瓦礫しかない所で自分たちがやったのが、家財の運び出しと家のヘドロ掻きでした。凄く現実離れすぎて、自分でもよくわからない状況でしたね。

ヘドロ搔きをしたのが二階建て全て浸かってしまったというお家だったんですけど、一通り家財の運び出しと天日干しもできて、撤収時に家主の方から「ここでこれからも暮らしていける目途がついた。ありがとう」と言ってもらえたのが印象的で。「こんな自分たちでも何か出来る事があったんだな」と、その一言で救われましたね。

こういった活動に限らず自分が今立っていられるのも、どこかしら他人事にしないと、やってられないところはあるんじゃないかなと今話していて思いましたね。「全部自分のせい」と捉えてしまうと潰れてしまうというか。「人のために何か嫌われないように」とか「自分の力でできることやんなきゃ」とか思い続けると心が壊れるというか。

あとは山口県萩市の方で台風の災害後に行ったときは、大学3年の終わりの頃で、他学生を率いるような立場でした。

当時の村田さん

そこは家財の運び出しをやってたんですけれど、現在進行形ですぐ氾濫した河川の危険水域が迫っている様な現場でした。

そういった状況だったので、一緒に活動する学生たちの安全を考えるとか、立ち会わせてもらうお宅への気配りとか「気持ちよく関係を持つためにとるべきコミュニケーションは何か」というようなことを考える機会にはなったかなと思いますね。

酉:そういった学生経験を経ていよいよ「就職」となりますよね。学部的にもいろいろ選択肢があったと思うのですが、なぜ造園建設業のアメニスさんに入社を決めたんですか?
 
村:原体験までさかのぼると、小学校1年のころ地球温暖化や環境問題がうたわれ始めてまして、そういったことをテレビやCMでみていた時に、地球温暖化に何か貢献できるような人になりたいという漠然とした思いがあったんです。「地球を救える人になりたいなぁ」という。

ただそこまで突出した才能があるわけではなく、平凡な幼少期を過ごしていく中でなんとなく「自治体に就職すれば、地球温暖化や社会問題にコミットできるんじゃないか」と考えたんです。それで、関西で公務員の就職率が比較的高いというところで立命館大学法学部に進学しました。

ただ、就職活動を考え始めた時に自治体は2~3年で別部署へ移動する「ジョブローテーション」があるということを学んだんですね。もし自分が自治体の希望部署に入り願っていたことが数年できたとしても「それ以降残りの人生全然興味のないことに携わることになる」と、それはちょっと辛いなと考えはじめました。

ではもっと街・都市部で緑に携わる仕事って何があるのだろうというのを調べた時に、一番最初に出会ったのが日比谷花壇というお花屋さんの企業だったんですね。で、お花屋さんと出会ったんですけど、お花屋さんの選考を受けている時に「君はうちじゃなくて、うちのグループ会社の方が良いと思うよ」と言われて、日比谷アメニスに行きつくという経緯です。

酉:なるほど・・・小学生で「地球を良くしたい・温暖化に貢献したい」って思われたんですね。
 
村:何ででしょうね(笑)子供時代を過ごしていた大阪市は東京ほど緑地が多くない街なんですけど、そんな中でも真夏日の公園に遊びに行って所々に植わっている木にとまっているセミ捕まえたりとか「木陰の下は涼しいな」「虫捕り楽しいな」といった思い出がずっと残っているんですよね。

そんな当時、CMで微笑んでる地球が赤くなってきて「熱いよ」とか「このままだと大変」といったのを見たイメージがずっとあって。そういった原体験に対する漠然とした思いが根本にあるのかなと思っています。

酉:漠然とではありますが、自分のやりたいことを胸に抱えてアメニスさんへ就職されますが、実際入ってみてのギャップとかありましたか?

村:ギャップとしては緑を増やしてないことですね。どちらかというと切っている立場なので。現場でも感じるんですが、この国は温暖湿潤な気候でほっといたら勝手に緑が増えているような土地なんですね。

自分の仕事は、危険や配慮の観点で木を切っている立場なんですよ。なので大学当時思っていたようなことはしていないというのが正直あります。ただ大学生時代の活動経験が今の仕事に活きているポイントもありますね。

よそ者が別の場所に行き、そこで親しい関係になっていく「これもこれで大切なことなんだな」というプロセスを学ぶことができていました。それが今は指定管理者という立場で、東池袋の方々とコミュニケーションをとる上で「なんでそれが必要なのか」ということの根拠にはなっていますね。

NPOでの経験がなければもう少し硬い考えというか「利益を追求していけばお客さんに満足していただけるし、特段住民とは接する必要はない」というような考えに陥っていたかもしれないですね。

酉:話題を現在に近づけたいと思います。イケ・サンパークが誕生したのはいつですか?
 
村:2020年の7月に部分開園して12月にグランドオープンしました。自分は公園管理の部署なので2020年の4月に正式に赴任しました。

酉:イケ・サンパークは「防災」が1つのテーマになっていると思います。対外的にもHP等でPRされているかと思うんですが、それはコンペの段階で仕様に組み込まれていたんですか?

村:その通りですね。ここは「防災公園を整備する」といった仕様でした。そもそも豊島区において、今現時点でイケ・サンパーク以上に緑地面積が広い公園は無いんです。なぜかというと区内に都立や国立の公園というのは無く、街の人たちにとって大きな緑地というのはほぼ無い環境でした。この立地特性は23区の中でも豊島区だけですね。

建設予定地近隣には木造密集地域があり、23区の中でも一番人口密度の高かった場所だったので大規模な災害が発生した時に家屋の倒壊と大規模火災が止められないリスクが顕在化していたんですね。そういった背景から「防災機能を有した区民が憩える広場を作って欲しい」という地域住民の要望が40年ほど前から挙がっていました。

その念願がイケ・サンパークというわけです。「防災と緑地」それらが前提としてはじまっている場所という訳です。

酉:「イケ・サンパークは防災公園として地域の人たちにとって災害時に頼りになる場所である」ことを対外的に知ってもらってしかるべきですが、これ以上は受け入れられない機能的な限界もあるかと思います。そのあたりの線引きというか、どこまでのリスクに対して想定されたものであり、それに対し地域の人たちにどこまでイケ・サンパークを頼っていいのかということも教えて頂けますでしょうか。

村:前提として公園の防災的性能の設計は国や自治体の方針に沿って整備されており、実質日比谷アメニスはほとんど関わっていないんですね。なぜなら私達は造園建設業者であって防災の専門家でないので。しかしながら同様の質問をよくお受けするのでその際お答えしている話をします。

先ず災害時における限界収容人数は東京都や国が出している基準を参考に出しているものだと思われます。避難できる収容率というのも平米あたり何人というのが東京都で定められていて、それに基づいてこの公園だと最大でも9000人という数値が算出されています。

また備蓄や設備に関しては、豊島区に防災事業の政策を引き受けている防災危機管理課という部門があり、そこで災害時において公園を避難場所として機能させるために必要な時間や排水能力など、各フェーズの運用や目的が定められており、その前提において想定されたスペックが整備されているという理解です。

酉:公園の防災機能は村田さん的に「しっかり地域へ伝わっている」「いない」でいうと、どちらでしょう?仮に後者だった場合、ネクストアクションとして何か考えられますか?

村:現状ある程度公園の存在は認知して頂いて、より具体的な意識付けをすべきフェーズだなと個人的には思っています。初年度は通り挟んだ向かいの家の方ですら、ここが公園だとご存知でなかったので先ずは存在を知ってもらうことに力を入れてました。

2020年はコロナ禍であったのでHPやSNSによる情報発信に注力しました。そこでも目的意識を持って、地場に強いインフルエンサーの方々に協力して頂きました。全国に名前を知らしめても来る予定がない人に知ってもらっても仕方がないので、地元の方々、特に東池袋が中心ですけど、雑司ヶ谷方面や大塚方面からも来園していただけるようなそういった方々への訴求力を持っているインフルエンサーの方々と繋がりました。

代表的なのはアイドルの宇崎真里愛ちゃん。あの方が豊島区のアイドルとして長年活躍されていて、地元の方々への発信力があるというところで広報大使をお願いしました。あとは地元の方々の活動支援。豊島消防署があるので、消防署主催のまちかど防災訓練という活動とコラボレーションしたりしていました。

その際に実施した防災訓練へ小学校の生徒の方々に来ていただいて防災施設を紹介したり、ということを初年度はやっていました。

酉:その様な初年度の活動が2年目以降、効果として表れてくるわけですか?
 
村:そうですね。2年目は「ここが防災公園ということ」を知ってもらう活動を我々も主体的にはじめまして、防災設備を紹介するYouTubeをHPに掲載したり、防災ノベルティー(手ぬぐい)を作ってお配りする準備をしていたり。この公園の防災設備がこんなものがありますよというのをお伝えするだけではなくて、街の人たちが実際にいざという時に少しでも判断が早くなるようなきかっけや意識付けのところに我々が関われたらなという思いでガイドマップを作ったりしました。
 
ただコロナ禍でなかなか思うようには動けなかったですね。2022年度は、いよいよコロナも落ち着いてきたというところもあり良品計画さんとの繋がりや、豊島区でも本格的に大きな催しをするぞという機運があり、はじめて大きな防災イベントを誘致することができました。

いつものもしもCaravan

初めに申し上げた「意識付け」を昨年度である程度実行できた感覚があります。ただ一方で東池袋エリアの急成長に伴い豊島区が23区上位に入る人口増加をしているんですね。参考例として今後公園の近隣にもタワーマンションが複数本建設予定です。そうすると地域住民が恐らく約数千名増加します。

公園の真隣には東京国際大学の新キャンパスが9月に開校予定です。そうすると更に数千名の学生さんが地域に増えます。つまり公園としては9000人受け入れられるといいつつ、こういった近年の人口増加を勘案するとキャパとして対応が厳しくなる可能性が十分にあると考えられます。

このような変化も含み、これからは「自助の訴求」がポイントかと。防災公園として頼っていただくのはもちろん良いんですが、やはり公園として提供できるリソースには限界がありますので。地域に対し自助を高めるという啓発をしていく必要があると今思ってます。

酉:自助の啓発は、そういった想定も含めて発信していく予定ですか?

村:ネガティブな話はあくまで自治体とのセッションの時に申し上げるぐらいかなとは思いますね。個人的にはコモンセンスとして「最後に頼れるのは自分自身」ですし「意思決定を他人に任せるべきではない」と思いますので、そういった文脈で地域の方々に「自助の啓発」をお伝えしていきたいなと思っています。
 
酉:声高にイケ・サンパークは9000人が限界です!と宣言するわけではなく、あくまで皆さん自助をやることから始めていきましょうという伝え方ということですかね。

村:そうですね「皆さん一緒に防災力を高めていきましょうね」と。先ずはいつもの日用品にプラスアルファ水1本買うレベルでもいいと思っています。あと対外的な情報発信も現状ある程度やっていて。例えばHPやガイドブックでも災害時における各フェーズの想定や機能を説明していますし、避難場所としての収容人数についても打ち出しはしています。

施設の紹介も地域の方々に対し都度ご案内しているので、街の人たちからしても「いざという時にトイレがある」とか「飲み水がある」とか「9000人も受け入れてくれるんだ、これなら安心!」というようなイメージを持って頂いていると思います。

ただ「街に何人住んでいる」だったり「9000人の中に自分が入れるのか」なんてあまり考えませんよね。だからそういった想像しづらい部分、例えば「公園として備えている100トンの飲料水のうち何ℓがあなたに提供されるのか」など伝えていかないといけないかなと思っています。
 
酉:では具体的にどういう手法でお伝えされていきますか?

村:草の根的な場で地域の人と直接会うときには現状課題をお話するようにはしていますね。現状自治会長さんとの協議会が2ヶ月に1回、自分達の取り組みとして清掃ボランティア活動を月1~2回やっています。そういった場で地域の方々と密にお話しをする機会を通じ、ある程度信頼関係が醸成されコミュニケーションがとれるようになった方には腹を割って現状をお話したりはしています。

基本的には「よそ者」なので、地域の方々と接する機会はそれほど多くないですし、大きくアナウンスするというのも全体として豊島区の施設なので豊島区の考えがあるので、立ち回り的にも自由な発言というのが中々しづらい立場ではあります。

酉:ちなみに災害時この充実した設備を有用に動かせるのか個人的に気になるのですが。それに対して公園でシミュレーションや訓練など行われていたりするのでしょうか?
 
村:そうですね。まさに開園してから現在もずっと議論を交わしている最中で、昨年度末にようやく我々現場の人間が発災時、特に首都直下地震が起きた時の役割分担は昨年度である程度固まったかなという現状ですね。まだまだ関係各者と詰めているステータスです。
 
酉:実際今発災したとなった場合、お店にお客さんがいたり、公園で遊んでいる親子がいたりすると思うんですけど、まず初めに皆さんはどういった行動をされるんですか?

防災危機管理課が災害対策本部を立ち上げてそこから枝分かれして業務指示を出していくという形になるので、指定管理者として我々は基本的には災害対策本部の指示に従うというのが最終的な役回りになります。

発災直後に関しては、まずは施設の開錠作業をする(全方位から入れるようにする)ことです。ここの公園の全体のデザインとして、四方八方から逃げ込める様にたくさんの入り口が設けられているんですけど、その多くには車停めがついているのでそちらを開錠します。

あと普段は立ち入り禁止にしているような設備、例えば災害用のトイレや電気系統などの鍵をとにかく開けていくというのが我々現場の最初のフェーズですね。

酉:なるほど、ありがとうございます。そろそろ話をまとめていこうと思います。現状「村田さんのやりたいこと」ってどこまでやれていると思いますか。加えてご自身として今後叶えていきたい事、今の仕事を通じてでも構わないのですけど、ぜひお伺いできればと思います。
 
村:今の仕事に携わらせてもらって最近思うのが、街の変化に対し公園が足を引っ張る様な「忌避される場所」になりつつあるということです。海外と国内では公園の捉え方が違っていて、諸外国では自分たちが最終的にメリットを享受するから自分達で管理する認識が強いのに対し、日本は他人任せというか、自分が生活する街の中や近所にあるのにどこか無関心です。

この課題に対し今の自分のパークマネージャーという立場からパークマネージメントの領域において更に色々な地域で貢献できるんじゃないかと思っています。公園を「忌避される場所」にするのではなく「街の人たちが自分たちで考えて解決する場所」に変えられる支援をしていくのだろうなと思います。
 
私たちは緑地のプロの会社ですが、一皮剥けて違う領域に足を踏み入れるということですかね。「自治体が決めたから維持する」とか、そういう前提じゃないと思うんですね。本来街の人たちが場所の使い方とか考え方を担うべきだと思うので。

自治体は自治体として国内に緑地を増やしていこうという国の方針を受けて一様にずっと開発を進めてきたと思うのですが、結果的に人口減少や公園管理をする公務員の数が削減された影響で、いっぱい作ったはいいけれど手が回らなくなってきてしまったというのが全国的な課題だと思います。

街が成熟していく過程で当初求められていたものと違うニーズが出てくることがあるので、そこをハード改修に頼り切るのでなく、ソフト面で今できることからお繋ぎする・支援するというのはこれから急速に求められていくのだろうなとは思います。
 
酉:素晴らしいですね。是非そんな未来が近いうちに訪れることを願っています。本日は貴重なお時間頂きましてありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?