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《音楽》われは海の子。


もうすぐ訪れそうな
夏を思わせる日差しがまぶしい朝です。

梅雨明けが待ち遠しいですが、
天気予報によりますと
もう少しそれはお預けのようです。

全国的にこの夏らしいお天気も
今日までのところが多いようです。

熱中症対策などこまめに
心がけたいですね。

今日はそんな待ち遠しい夏を
先取りするかのような曲のタイトルです。


文部省唱歌の「われは海の子」にまつわるお話です。


「文部省唱歌」と今は一口に言いますが、
実は、歴史が古く明治時代にまでさかのぼります。


1910年(明治43年)文部省が発行した「うた」の教科書がありました。
その本のタイトルを「尋常小学読本唱歌」といいます。


尋常小学読本唱歌というのは

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(Wikipedia  より)

このような本で、今の「音楽の教科書」のはじまりの本といえると思います。
戦前、国語の教科書が「国語読本」と呼ばれる本だったように、音楽では「尋常小学読本唱歌」という教科書が誕生しました。

この本の中には、今でも歌われている
♪あたまをくもの うえにだし~ という歌いだしの「ふじの山」
♪はるがきた はるがきた~ という歌いだしの「春が来た」
♪あれまつむしが 鳴いている~ という歌いだしの「蟲のこゑ」

なども入っていました。

合唱の指揮の先生がいつも「文部省唱歌、文部省唱歌というけれど、この曲は尋常小学校の時代から…。」と力説されていらっしゃったのをよく覚えています。

なんで、そんなに力説されるのかな?といつもポケッと聞いていた私でしたが、恐らく、「初版の音楽の教科書の時代から歌い継がれているのだよ」「明治の時代の人の心を、こうして今でも伝わる美しい日本の心を君たちわかるかい?」というような事を言いたかったのではないかと歳を重ねた今は、思います。110年経ってもなお、歌い継がれているという事はやはりすごいことかなと思います。大切にしたいものです。


文部省は「尋常小学読本唱歌」を作るにあたり、当時の国語の教科書だった「国語読本」の中から韻のよい詩(韻文)を選び、東京音楽学校に作曲を依頼しました。歌詞についても、文部省が歌詞を一般から公募し、入選した作品を編纂委員会で検討し作成したものがあり、多くの曲が「作曲者・作詞者不明」と記されています。


そんな「尋常小学読本唱歌」に記載されていた「われは海の子」も「作曲者不明」「作詞者不明」と長年思われておりました。
1989年(平成元年)日本の児童文学者である宮原晃一郎氏の娘さんが、この歌詞は父が1908年に文部省の詩の懸賞に応募し、当選した「海の子」という詩が元になったと主張したため、現在は宮原晃一郎さんが、作詞したのではないかという説が有力になっているそうです。


児童文学者だった宮原晃一郎さんは、鹿児島市の加治屋町(かじやちょう)出身だったため、この「われは海の子」も鹿児島市の錦江湾(きんこうわん)がモチーフになっていたのではないか、という話で鹿児島県民は盛り上がりました。今の鹿児島市 天保山(てんぽざん)から望んだ錦江湾ではないかと言われております。
鹿児島市にある祇園之洲公園(ぎおんのすこうえん)には歌碑まで立っているほどです。「宮原晃一郎さんが、作詞したのではないかという説が有力」という段階で、歌碑まで立てるなんて。。と私は正直思いもしましたが、娘さんの主張を県民が温かく迎え入れできた歌碑なのかな?と思います。


「尋常小学読本唱歌」はやがて1911年から1914年にかけて「尋常小学唱歌」として編纂されます。第一学年用~第六学年用の全六冊に分けられ、児童の発達や言語習得、そして季節の推移に合わせて曲が作られ、先の「尋常小学読本唱歌」に入っていた曲もすべて振り分けられました。今の音楽の教科書の形に、近づいていますよね。
「季節をうたで感じる」ルーツは、ここにあったのかもしれないと思うことでした。先人たちの、言葉に対する思いやセンスを感じますよね。


そんな「われは海の子」。もちろん合唱のバージョンです。
台湾の合唱団ですが、きれいな日本語で歌ってくださっております。

指揮の佐藤賢太郎先生が編曲もされたそうです。初めの、海の波を思わせる「サーーーーーーッ」というような擬音がなんとも印象的です♪


今年は、このまま豪雨などに悩まされることなく
無事、夏が訪れますように。。

あなたの周りにはどんな音楽がありますか。


今日もあなたの心に音楽を。


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