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悪魔と呼ばれた男。【2】


前回、ニコロ・パガニーニ というヴァイオリニストの超絶技巧の凄さについてお伝え致しましたが、
今回は悪魔と呼ばれたパガニーニの音楽家としての一面とのちの音楽家に与えた影響についてみてみようと思います。


パガニーニ音楽家としての一面

パガニーニが生きた時代はハイドン、モーツァルトより少しあとの時代になります。
あんなに天才と言われたモーツァルトでも音楽の父と謳われるベートーベンでもなし得なかった、音楽家がコンサートを開き多くの収益をあげることに初めて成功したのがパガニーニでした。


超絶技巧でたくさんのお客様を虜にし、高いチケット代を払ってでも周囲がこぞって聴きに行くような演奏会を開き成功させたパガニーニでしたが、決してひとりよがりのヴァイオリニストではなかったようです。

 彼は芸術面に関して誰かを嫉視することはなかったようである 。若い演奏家には常に親切であったし 、偉い教授に対しても偏見はなかった 。
 一八二八年 、ウィ ーンに来たパガニ ーニは若きスラヴィークと知り合い 、愛情深い眼差しで見守った 。スラヴィークはパガニーニを崇拝しており 、いつも彼のところにやってきては 、運指などに関して多くの有益なヒントを授かっていた 。パガニーニは 、不断の努力で大胆な道を進んでいくよう 、親しみを込めて彼を激励した 。

—『ニコロ・パガニーニの生涯』ストラットン著


楽器を演奏する人は、
音楽をする相手に対してもどこか敬意を払った態度で接する場面が多くある気が致します。
よく知っている演奏者同士の場合ですと、
口には出しませんがお互いの実力をともに認め合っている部分があり、敬った気持ちで互いに接しているような態度がある気が致します。
相手の優しさなのでしょうか?
そこに音楽をしているもの同士に感じる何かがあるのです。仲間意識とはまた違いますが、、。
それに共通するようなものをパガニーニの中にも感じました。

悪魔の呼び名とは正反対に若い頃は人懐こい一面などもあり、パガニーニは多くの演奏家と共に活動をする機会もたくさんあったようです。


パガニーニが演奏するためにウイーンに到着するのはベートーベンが亡くなったあとでした。そんな時代ですが、当時の音楽家たちがパガニーニの演奏を聴いた時のことが次のように記されてあります。

 パガニーニの登場がいかに鮮烈なものだったかは、ある批評家のこの一文を読めばわかる。
「この街で、こんな大騒ぎを巻き起こした芸術家は、このヴァイオリンの神がはじめてだ!  大衆が金を払いたがるコンサートなどいままでなかった。それに、音楽の巨匠の評判がこれほど下層階級まで広がったことも、わたしの記憶にない」

—『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト―パガニーニ伝―(新潮新書)』浦久俊彦著


その衝撃を受けた作曲家たちを少しご紹介します。


カール・チェルニー

1791年ウイーン生まれの音楽家
ピアノでは教則本でよく親しまれているチェルニーです。チェルニーはベートーベン、フンメル、クレメンティにピアノを習い演奏家としてもデビュー致しますが、控えめな性格からチェルニーは演奏家の道はやがて退き、作曲や教えることを専門にしていきます。リストやクーラウの先生であったことでも有名ですね。


そんなチェルニーでしたがパガニーニがウイーンに到着して初めて彼の演奏を聴いた時のことを友人に宛てた手紙の中で次のように語っています。

「八日前にイタリアのヴァイオリニスト、パガニーニが来て、大レドゥーテンザールで最初の演奏会を開いた。その印象はどんなにうまく言い表してもおとぎばなしのように聞こえることだろう。恐らく世界中どこを探しても、あの青白い病弱な男ほどヴァイオリンという楽器でたくさんのことをやってのけた芸術家はいない。彼はどんなピアノよりもうまく高音のパッセージを弾きこなしたが、あの純粋で透明な音色はピアノならばモシュレスかカルクブレンナーほどの名手しか実現できないものだ。あの感激は一生忘れられない。一度聴いた人は誰しもがそうに違いない。」

—『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト―パガニーニ伝―(新潮新書)』浦久俊彦著

そしてパガニーニ に衝撃を受け、このような曲を残しております。

パガニーニのカンパネラの主題による華麗なる変奏曲 Op.170 イ短調 

(Op.は作品番号で作曲した順に番号が記されております)


作品番号に着目します。


ベートーベンのソナタを弾くなら必ず弾きましょうなどとよく言われるチェルニーの40番練習曲がOp.299です。パガニーニの演奏を聴いたあとになりますよね。


先生から、「あなた、メトロノームというものをご存じないの?速度記号は見て来ましたか?presto(プレスト)ですよ、presto!今の倍の速さでって書いてあるでしょう?」などと言われながら、どう頑張っても表記の1/3程度でしか中・高生の頃は弾けず苦労した、あの、prestoかvivace(ヴィヴァーチェ)の恐ろしい速さで弾くことを強いられるチェルニー40番です。


いえいえ、そんなわたくしの体験談では、わかりにくいですね。40番練習曲に記載されております解説によりますと、

 チェルニー30番練習曲集で得た演奏のための基礎技術は,この40番の"Die Schule der Gelaufigkeit"によって,さらに速度を増すことが目的とされて書かれている。
 そのためにもっぱら指の流暢さと,その原動となる腕,手首の柔軟性の訓練に意が注がれており,一応の形式感と表面的な旋律感,和声感以外には,さして音楽的に秀れているものとはいえない。しかし技術的面から見たとき,この練習曲集のもっている多様さは十分価値のあるものであり,高度の技術を養うために,絶対欠くことのできないものである。

ツェルニー40番練習曲 全音楽譜出版社 より


このとにかく早く弾くことや技術を求められるこの本はきっとパガニーニの影響を受けたことは間違いない!と思いました。


ちなみに練習順にみてみますと
チェルニー100番練習曲はOp.139、
30番練習曲はOp.849
(40番練習曲はOp.299)
50番練習曲はOp.740
いづれも、恐ろしく早く弾かされる本です。


そしてそれよりも前の年齢、つまり比較的小さなうちに使用したりする場合もあるテキストとして、
第一課程練習曲はOp.599
小さな手のための25の練習曲はOp.748
リトルピアニストはOp.823


がありますが、これも作品番号から考えますとパガニーニの演奏を聴いたあとということになります。

しかし、その事を裏付ける文献や書籍などが私の手元の範囲では分からなかったのと、図書館もあいにく感染症の影響で閉まっており調べに行くこともできなかったのと、この時代にはピアノの超絶技巧を習得させるための教則本がたくさん出版されており、それらの本ではピアニストは育たないとチェルニーは学生向けにあの練習曲を残したようなので、チェルニーの練習曲とパガニーニの演奏との関係が分からないままなのですが、友人に宛てた手紙からもチェルニーがパガニーニにとても衝撃を受けたという事実は間違いなさそうです。


フランツ・シューベルト

1797年オーストリア生まれの作曲家
「ます」や「魔王」「ドイツ歌曲」などで有名ですね。
今でこそ、有名な作曲家ですが、病弱で貧しい作曲家生活だったようです。

パガニーニがオーストリアに演奏に行ったのが1828年なのですが、その頃シューベルトは「ます」も「水車小屋の娘」も「魔王」も作曲したあとの晩年の時期になります。


美しい旋律で有名なシューベルトですが、
1827年作曲の「4つの即興曲 D899(作品90)」「4つの即興曲 D935(作品142)」はピアノ曲でもよく親しまれている曲ですよね。

しかし、モーツァルトやベートーベン のソナタ形式に親しんでいた聴衆には、この頃の作曲するシューベルトの音楽は内面的で分かりにくかったとも言われております。

シューベルトはソナタ形式の理念や構成とは違う音楽をこのころは多く作りました。厚い和音や転調で人間の心理の変化のようなものを現していたそうです。今のわたしたちにはとても素敵に聴こえますよね。


この即興曲を作曲した翌年1828年、
シューベルトはパガニーニより少し先にウイーンで演奏会を開いております。

シューベルト自身も思ってみなかったほどマネージメントの能力を発揮して、1828年3月に演奏会の開催にこぎつけた。ただこの時期は、ちょうど前年に他界したベートーベンの追悼演奏会があったり、パガニーニ の演奏会も予定されていて、それらの日とかち合わないようにするため、二転三転して、ようやく三月二十六日に、オーストリア音楽協会の入居している「赤針鼠館」で行われることになった。

『シューベルト』朝日選書 喜多尾道冬著より

分かりづらいと言われていたシューベルトの音楽ではありましたが、この時開かれた演奏会では500席の会場は完売し立ち見も見られたほどだったようで、大成功に終わったそうです。

友人たちの日記によりますと

「このかがやかしい演奏会のことは終涯忘れないだろう」(ハルトマン)、「盛大な拍手で好評だった」(バウエルンフェルト)

『シューベルト』朝日選書 喜多尾道冬著より

と記されていたそうです。


音楽評論家らにも好評だったようですが、三日後に始まったパガニーニの演奏会の爆発的な人気に押されて、影が薄れてしまったようです。


そんなシューベルトでしたが、前評判が凄かったパガニーニの演奏会には足を運び堪能したそうです。
シューベルトが感銘を受けたのはパガニーニの超絶技巧ではなく「アダージョ」(ゆったりとした音楽)の曲でした。パガニーニの演奏会を聞いたあと

「ぼくはアダージョで天使が歌うのを聴いた!」

と友人に語った言葉が有名です。


このわずか8ヵ月後にシューベルトは31歳という短い生涯を終えることになりますが、その間も家財道具売り払ってでも、パガニーニの演奏会に足を運んだようです。そしてこの8ヵ月の間、シューベルトは曲を書き続けました。

・ミサ曲変ホ長調(D950)6月〜書き始め夏頃完成 シューベルトのミサ曲としては最高傑作!
・弦楽五重奏曲(D956)夏頃完成 唯一の本格的な弦楽五重奏曲として秀れた作品。
・3つのピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)
・ミサ曲ハ長調(D452)のための2度目の『ベネディクトス(D961)
・タントゥム・エルゴ(D962)10月
・『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)


作品番号950のミサ曲を6月〜書き始め、それ以降に7作品。。しかも、ピアノソナタに於いては、ベートーベンのピアノ・ソナタといつも比較され、いい評価を得てこなかったシューベルトでしたがこの晩年の「3つのピアノ・ソナタ(D958、D959、D960)」では、ロマン的情緒に富んだ構成になり、シューマンやブラームスに大きな影響を与えたと言われています。


病弱で晩年も身体が弱かったシューベルトが晩年にこの脅威の曲数の作品を残しているのは、パガニーニの演奏が刺激になったのではないかとわたし個人的には思いました。

直接そのことを示す文書などがないのですが、この作品の数と、死ぬ間際まで書き続けた姿、家財道具を売り払ってまで何度も足を運ぶ姿にそのパガニーニの凄さを感じさせられました。

今日のあとがき

パガニーニに影響を受けた作曲家は、まだまだたくさん存在します。私がパガニーニに影響を受けた作曲家一人ひとりについて書きすぎるせいで、まとめられないせいで、膨大な文書になりそうなので少しづつupしていくことにしました。長期戦になりそうです。。


パガニーニという作曲家に焦点を絞って本を読んでみることで、その作曲家との関わりやその時代の背景などが新しい角度から見えたことが私にとっての新たな発見につながり面白いでした。この面白さが少しでもお伝えできれば、、少しでも、どなたかの西洋音楽史やピアノへの興味につなってもらえたらな。。という思いで続けることにしました。


また、次の作曲家がまとまりましたら、順次upしていきます。
ここまでお読みいただきありがとうございました😊


〜参考にした本〜





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