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悪魔と呼ばれた男。【3】


1823年3月、パガニーニが開いたウイーンでの演奏会は大成功に終わりました。

翌年5月に催されるロシア皇帝ニコライ1世の戴冠式と記念演奏会に出演するため、パガニーニ はワルシャワへ向かいました。当時のワルシャワはロシア皇帝によって統治されていたのです。


このワルシャワ訪問で一人の青年に出会います。


フレデリク・ショパンへの影響

フレデリク・ショパンです。
ショパンは1810年ポーランド生まれの作曲家、ピアニスト。ピアノの詩人と呼ばれ「子犬のワルツ」や「革命のエチュード」「別れの曲」などなどたくさんの曲を残したロマン派を代表する(本人はロマン派であると認めておりませんでしたが)音楽家です。


ショパンはその頃、ワルシャワ音楽院の生徒でした。
1826年 16歳でワルシャワ音楽院に入学します。

この頃のショパンに音楽の成長で影響を与えたのものがいくつかあります。1828年の5月に聴いたピアニストのフンメルの演奏と、

父親の友人でワルシャワ大学の教授だったヤロツキが国際会議に出席するために同年秋に訪れたベルリンでの出来事と(2週間ほどベルリンに滞在していたそうで、ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴いたとされています)

1829年5月に聴いたバイオリニスト、パガニーニの演奏だったと言われています。

それぞれ時代を代表する巨匠(フンメルとパガニーニ)であったこの二人の印象は極めて強力なもので、それはショパンのピアノの勉強に大きな刺激となったばかりでなく、その創作にも影響を与えた。

ショパン 新潮文庫 遠山一行著より


ショパンは前年の一八二八年九月、滞在中のベルリンからワルシャワの両親に宛てた手紙に「聞くところでは、かの高名なヴァイオリニスト、パガニーニがここに来るそうですが、本当かも知れません」と書いているが、彼のパガニーニへの関心は並々ならぬもので、この頃の手紙には、パガニーニという名前が頻繁に登場する。  ショパンとパガニーニの出会いは、当時、ワルシャワ音楽院長で、ショパンの作曲の師匠でもあったエルスネルの招きに応じて、パガニーニが音楽院を訪問したときが最初だったと思われる。ショパンは十九歳。まだ音楽院生だった。

—『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト―パガニーニ伝―(新潮新書)』浦久俊彦著

この1829年のワルシャワで行われたパガニーニの演奏会は11回行われたようですが、ショパンはこれを全て聞きに行ったと言われています。

そしてあまり知られておりませんが1829年ショパンは「パガニーニの思い出」という曲を残しています。

この作品は、パガニーニ自身が作曲し演奏会で演奏していた『ヴェネツィアの謝肉祭 変奏曲 作品10』を聴き、この主題をもとに作曲されたそうです。

同じ年の1829年7月ショパンはワルシャワ音楽院を主席で卒業し、ここからウイーンへと旅立ちのちにショパンは偉大な作曲家として名を残していくのです。

そして、この頃にはすでに書きはじめていたであろうと言われているのが、あの『12の練習曲』作品10です。


パガニーニのショパンへの影響は、この作品のように表面的なものだけではなく、もっと作曲家としての彼の深層に及んだという見解もある。たとえば、ショパンの初期を代表する技巧的な作品『十二の練習曲集』作品一〇を彼に書かせることになった最大の動機は、パガニーニの超絶技巧だった、という見方もある。

—『悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト―パガニーニ伝―(新潮新書)』浦久俊彦著

ショパンの初期の作風はしばしばフンメル風といわれ、また間もなく書きはじめられる練習曲の創作にパガニーニの影を見る人は少なくない。

ショパン 新潮文庫 遠山一行著より


あの練習曲です。木枯しや黒鍵などピアノが好きなかたには馴染みの多い練習曲もパガニーニに影響を受けて作曲されたのかも知れない。。と思うと不思議な気持ちになりました。まだ19歳ほどの青年がパガニーニに受けた刺激の大きさが分かる気が致します。パガニーニを聴いてあの曲が誕生した(かも知れない)のです。

そして、この練習曲があるのもあの時期にパガニーニの演奏を聞いたからこそなのかも知れないという歴史に触れた時、当時の音楽家たちの偉大さに改めて気づかされるのでした。今も残る数多くの作品の数々は、パガニーニだけに限らず音楽家同士互いに刺激を受け合い切磋琢磨して残された曲も数多くあるはずです。私にとってのなんとも言えないロマンです。


パガニーニ の演奏を聴いて人生が変わってしまった音楽家もおりました。


ロベルト・シューマンへの影響


ロベルト・シューマンです。
シューマンは1810年ドイツ生まれの作曲家です。

子どもの教則本で有名なユーゲントアルバム(子どものためのアルバム)Op.68(「楽しき農夫」などが有名です)の解説文によりますと、

本屋の息子として生まれ,音楽と文学を熱烈に愛していたが,母の意思で大学で法律を学んだ。しかし,どうしても音楽家になる希望をすてることができず,ついにピアニストになろうとして,ライプチヒの有名なピアノの先生のフリードリヒ・ヴィークについて本格的に勉強をはじめたが,指を動かすための無理な練習をしたりして,結局,指を痛めてしまい,作曲家に転向したのだった。

シューマン ユーゲントアルバム 全音楽譜出版社 楽曲解説より

大学の途中で音楽の道に進むことを決めたシューマンでしたが指を痛めて作曲家に転向しましたので、初期の頃の作品はピアノ曲が多いでした。文学にも精通しておりましたので、ドイツリート(ドイツ語の歌曲)の作品も多く残しています。やがてリストによってピアノ曲に編曲されますが、『ミルテの花 献呈』もシューマンによって作曲されたこのドイツリートです。

そして、大学生のころヴィーク先生につきピアノを学びピアニストを志そうとシューマンに決意をさせた出来事こそパガニーニの演奏を聴いたことだったと言われております。

1830年7月30日早朝、ロベルト・シューマンは母親に宛てて長い手紙を認めた。この手紙はその後の彼の人生の方向を、19世紀音楽史を決定づけるものであった。彼にペンを取らせたものは、直前にフランクフルトで聴いたパガニーニのコンサートであったと思われる。

ピート・ワッキー・エイステン著 シューマンの結婚 語られなかった真実より


このように母親に宛てて手紙を書き、学業を疎かにしてでもピアニストへの道を志したいと思いを告げるわけですが、母親は直接、ヴィーク先生に宛てて息子がピアニストなるという計画をどう思うか問う内容の手紙を認めています。

この時のヴィーク先生からの返答は実に辛口の内容だったようです。

偉大なピアノのヴィルトゥオーゾ(超一流の演奏家)でさえ、ピアノ教室の運営なしには日々の生活を送るのは苦しい時代だったようですが、

果たしてロベルトにそれができるだろうか?彼はピアノ教師となることに耐えうるのであろうか?ヴィークの手紙の行間には親身な疑問が感じられた。必要不可欠な楽典、和声や対位法、学科、(にも疑問が感じられる)とヴィークはさらに続ける。ロベルトは当時、音楽理論に興味を見せていただろうか?「私[ヴィーク]は、否(ナイン)、と言わざるを得ません」。ロベルトは果たして、(ヴィーク教授の娘)クララのように、毎日数時間、三声や四声のフーガを練習するだろうか?

ピート・ワッキー・エイステン著 シューマンの結婚 語られなかった真実より

シューマンはこのようなアドバイスを聞き入れることはなく、ピアニストへの道を志しはじめます。もう、おそらく、決意は固まっていたんでしょうね。


シューマンは文学に精通していたため、音楽雑誌の中心的な編集者として活躍をしておりました。その音楽雑誌の中で、今でいうコラムや音楽評論を寄稿しており、その内容などをまとめたものが岩波文庫からシューマン著『音楽と音楽家』という本が出ております。

その中で、自身の編曲したピアノ曲『パガニーニの狂想曲によって作曲された六つの演奏会用練習曲 ロベルト・シューマン 作品10』についても解説を載せておりました。その中でパガニーニの24の狂想曲を練習曲に仕上げた理由について、このように触れております。

ことにこの練習曲の原作になったヴァイオリン狂想曲(カプリス)は、徹頭徹尾まれにみる新鮮軽快な着想から生まれたもので、おびただしい金剛石を含有しているから、ピアノ曲に編曲する場合にぜひ必要な縁取りを少々よけいにつけても、その貴重な成分を発散させるどころか、むしろ固定させることになるだろう。以前に出版された《パガニーニによる練習曲集》(これもシューマンの作品)では、僕はなるべく原作の一音一音を写しとり、ただ和声の組み立てだけをすることにした(ので或いは原作をそこなったかも知れない)。けれども、今度は趣向をかえて、忠実な逐語訳という衒学的なやり方をやめて、出来上がりが原作の詩趣をそこなうことなく、しかももともとヴァイオリン曲だったことを忘れさせて、まるで初めからピアノの曲だったような印象を与えるようにしたいと思った。

中略

パガニーニのように一生の尊敬の的となった、力強い精神の生んだ作品を取扱うのであるから、いつも慎重を期して(編曲を)やったことはいうまでもない。

シューマン著 『音楽と音楽家』 岩波文庫より

この解説からも分かるように、シューマンはパガニーニの24の狂想曲(カプリス)をテーマにした曲で二度、作曲に取り組んでいます。一度目におそらく気に入らないところがあり、二度目にもう一度取り組んだのでしょうが、それだけ、パガニーニの24の狂想曲に敬意を払っていたことが伺えます。


このような出会いにより誕生した作曲家シューマンでしたが、とてもロマンチックな芸術家だったようです。音楽と文学が融合した彼の世界観から生まれる作品の数々は、クララとの出会いで多くの才能を開花させやがてドイツロマン派の核心となっていくのでした。その後1世紀に渡りヨーロッパを支配した芸術運動の始まりとも言われております。

そんなシューマンは、やがてロマン派の進み方へ疑問を抱くようになりますが、彼のまわりでは、リスト、ヴァグナーらの新ドイツ楽派によって色彩豊かで劇的で大規模な曲が書かれるようになっていきます。シューマン自身は時代に背を向け始め、やがてライン川で自殺をはかりその後精神病院に収容されます。

その病院の中で最後の作品として残された曲がパガニーニの24のカプリス(これはヴァイオリンの独奏曲でした)にピアノ伴奏を付け編曲したものでした。


若い頃熱心に編曲に取り組んだあのパガニーニのカプリスをまた、精神を病んででもピアノ伴奏付きの曲へ編曲しようとする彼の思い。保守的な思考も強かったようでロマン派の流れにやがて否定的になりますが、若かったあの頃の作品に戻りたい、、、。そんな一念が彼に筆を進めさせたのでしょうか。シューマンのパガニーニに対する特別な思いを知らされるのでした。


ビルトゥオーゾだったパガニーニ。これまでチェルニー、シューベルト、ショパン、シューマンへ影響を与えたようですが影響を受けた作曲家はまだまだ存在するのです。
それは、また次回へと続きます。


今日のあとがき

私の中でまだ続いていたこのシリーズ。
少し久しぶりになってしまいました。
シューマンが精神病院に収容されたベッドの上で、最後の最後までパガニーニの24のカプリスの編曲にこだわった部分では、本を何度読み返しても涙がこぼれました。
超一流の演奏家を意味するヴィルトゥオーゾの言葉の意味がやっと分かり始めるこの頃でした。

それでは、また次回に。


〜今回参考にした書籍〜

悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト パガニーニ伝 (新潮新書) 

カラー版作曲家の生涯 ショパン (新潮文庫) 

シューマンユーゲントアルバム 全音ピアノライブラリー 

音楽と音楽家 (岩波文庫 青 502-1) 

シューマンの結婚: 語られなかった真実 


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