【吹奏楽】下手なことは悪いことではない【前置きの昔話その2と本論】

【その1から続き】

さて、3年の春から楽器を変わってどうなることかと思われるだろうが、これが殊の外うまくいった。チューバは他の楽器に比べると激しく動く箇所も少なく、運指がそう複雑にならなかったことも幸いした。コーチに音色を褒められたり、さらには時折ソロを与えられることもあり(チューバ全員、それぞれ吹いてみたテストの上で決定)、周りの僕を見る目がそれまでの「窓際部員」のそれではなくなったことを肌で感じた。

大学の吹奏楽部には最初からチューバで入部し、3年生の時は学生指揮者も務めた。同期の中での投票によって決まったのだが、おそらくトロンボーンで入部していたら指揮者に推されることはなかっただろう。僕の大学はコンクールも学生指揮者が指揮をすることになっていたので当然指揮をし、九州大会で金賞をいただいた。

また学年が上がると下級生を指導する必要が出てきた。役割上、チューバだけでなく他のパートも指導しなければならなかったが、ここでトロンボーンの経験と、以前研究していた練習方法の知識のうち他の楽器にも使えるものが役に立った。

自分が試したときはあまり上手にならなかった練習方法が、「こういう方法もあるよ」と後輩たちに紹介してみると、なんと後輩たちはその方法で練習してどんどん上手くなっていく。後輩たちの方が自分より才能があったのだろう。以前いろいろ研究した練習方法は無駄にならなかった。
そのうちあることに気がついた。

さて、ここでタイトルを回収しに行きます。いくつかの意味があります。

あきらめずに真摯に取り組めば下手な人は上手い人より得るものが多い
楽器がなかなか上手にならない時期を過ごした人は、その楽器に適性があって苦労せずに上手くなった人よりも練習法・指導法・音楽知識などでたくさん引き出しを持っていることが多い。

最初下手だと言われていても努力を続けていればいつか上手くなる
以前所属していた楽団でもなかなか上手にならず、苦労している人たちがいた。しかしその人たちは地道に努力を続け、ついには全国大会でソロを吹けるまでになった。(ちなみにそのときの全国大会では金賞をいただいた。)

またコツコツやってる人は、ある日突然、脱皮したかのように飛躍的に上手くなるものだ。ジワジワとではなく、いきなり上手くなる。ただコツコツ練習を積み重ねた場合であって、当然努力しないものは上手くならない。

だいたい上手くならない人というのは本人の資質の問題よりも周囲の練習環境だとか練習メニュー、よい指導者の有無などが原因となっていることが多いのだ。僕のように最初の楽器割り振りで向かない楽器に割り振られることもある。決して本人だけが原因ではない。

そもそも、楽器が下手だからと言って見下される理由はない
そのような中、練習をサボらず真面目にやっているのになかなか上達しない人に対して、他の人が上から目線で横柄な物言いをしたり、軽んじた態度を取ったりすることは許されるべきではない。

同じ人間が同じ時間をかけて日々練習していても、例えば僕のように適性のある楽器に変わったり、進学や就職で所属する楽団が変わって練習方法が変わったりすることで演奏技術が格段に伸びることがある。

そのような中で、例え伸び悩んでいる時期でも、その人たちの努力や人格まで否定するような人たちの言うことなど耳を貸す必要はない。メンタルがやられるだけだ。真剣にアドヴァイスをしてくれるのなら耳を傾けるべきだが、経験上そういった人たちが上から目線で言ってくることは大体何の役にも立たない。

ただ、誤解のない様に言っておくと、周りの人たち全てがそういうロクでもない人たちだったわけではない。一緒に一つの音楽を作り上げるすばらしい仲間として友好な関係を築けた人たちはその何倍もいる。今現在もプライベートで交流のある人たちはそのほとんどが吹奏楽絡みだ。

最後に、もし今、楽器がなかなか上手くならなくて悩んでいる人がいればお伝えしたい

努力は必ず報われる時がやってくる。ただ、それまでにはもしかすると結構な年月が必要かもしれない。
もし才能が必要だとすれば、それは「実を結ぶまであきらめずに努力を続けられる才能」だと思う。

なぜこれを才能と呼ぶかというと、これができる人がかなり少ないから。
これは勉強でもスポーツでも一緒である。

皆様の毎日、一分一秒が充実した時でありますように。

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