見出し画像

第5部 VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ (13)

VRからメタバースへ(1):「動物化」を超えて

「存在を認識に還元してはならない。」「偶然性こそが絶対的であり必然的である。」「新しい実在論」のこのような考え方はもちろん思弁的である(事実、メイヤスーは自らの立場を「思弁的唯物論(speculative materialism)」と名乗っている)。モノ自体への接近を狙っているのに思弁的であるということは、一見腑に落ちない感じもする。なぜなら思弁的であるということは経験的ではないということであるからである。しかし、これに対する回答は既に明らかであろう。「経験」では決して「相関主義」の枠を抜け出ることができないから、逆の言い方をすれば「経験」は「相関」あっての「経験」だからである。相関主義を抜け出るためには、即ちモノ自体へと接近するには想像力が必要である。つまりは思弁的である必要があるということである。我々が生きている相関に囚われた世界ではその相関の外部にあるモノ自体には到達することができない。しかし、我々はそれを想像することはできる。モノ自体が、そのモノの存在自体が根本的に異なった世界を我々は想像することはできる。SFしかり、ファンタジーしかり、アニメしかり、マンガしかり、ゲームしかり、我々はそのような世界を常に想像し、まんが・アニメ的リアリズムについて述べたところで考察してきたように、それらを想像の中において「リアル」なものとして体験してきた。そしてむしろそのようなリアリズムこそが、いわゆる「近代化」以前の世界においては当然だったのである。

そして、現在、我々が手にしたツールはVRデバイスであり、その先に広がるVRの世界である。これは技術的には大きな進歩であろう。しかし「人間」としてはこれは、むしろ退化なのかもしれない。あるいはコジェーブ―東浩紀的に言えば「動物化」への路線を進んでいるのかもしれない。マンガもアニメも小説もゲームも、いわば「向こう側」の世界であった。しかし、もはや我々はその世界の中に入れるのである。向こう側にあるからこそ、我々人間は「想像力」を持ってその世界に近づこうとしてきた。しかし、その世界の中に簡単には入れてしまうとすれば、どうなってしまうのか。中に入るとは言い換えれば、まったく別の規則を持った世界に入り込む、つまりは別の相関主義の世界の中に入り込むということである。現在、「メタバース」というのはこのような意味での「別の世界」「もう一つの世界」という意味で使われていることが多いであろう。その世界は確かに魅力的である。東(2001)は『動物化するポストモダン』の中で「そのようなオタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティッシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。」(p.129)と述べている。本論においてもVR世界をドラックと関連付けて論じたことがあったが、そこに入る、そこに入り込むということは、ある相関の世界から、別の相関、自分好みの、自分が快感を得られる相関の世界へ身を投じるということであり、その意味で自分を閉じるということでもある。もちろんそれは悪いことではない。コジェーブは欲望と欲求を区別し、人間は欲望を持つが、動物は欲求しか持たないと述べた。しかし欲求のままに生きるのはまさに動物的な意味で快適であり、快感である。そしてそれは同時に自分が「モノ」になる感覚(あるいはまさに「動物」になる感覚、自分が人間以外の存在になる感覚)をも伴う。「新しい実在論」や「アクター・ネットワーク理論」に代表される「存在論的転回」が批判してきたのはまさにこの「人間中心主義」であった。第4部で述べてきたように、VRにはそのような「人間中心主義」をそのVR世界に入ること、その世界の中で人間が人間ではなくなるような、人間がモノとなるような体験を得ることで、それ(人間中心主義)を打ち破る可能性が秘められている。そしてそれはVRの魅力と可能性の一つである。

しかし、VRではなく「メタバース」という言い方をした場合はどうだろうか。「メタバース」は、「もう一つの世界」というよりも、「複数の世界」といったほうが適切であろう。そして、今、我々がVRデバイスとともに手にしたのは、まさにその「複数の世界」としてのメタバースなのである。つまりそこに広がるのは「もう一つの世界」ではなく偶然性こそが絶対的であり必然的であるような「ありうべきいくつもの世界」なのである。大切なのはAという世界=相関か、Bという世界=相関かという二択ではない。二択であっても三択であっても、それでは相関性自体の外に出ることはできない。大切なのは、まさに「メタ」の位置に立つということなのである。そのそしてその「メタ」の位置に立つことこそが「偶然性こそが絶対的であり必然的である。」という位置に立つこと、即ち「エクストロ(外部)」の世界に立ちうることなのである。メイヤスーはエクストロ=サイエンス小説を書くことの難しさについて「サイエンス・フィクションの読者は、たとえ可能な限り奇想天外な前提を置くことを空想未来小説家に許容する心構えがあるとしても、作者がその前提を厳密に守り抜くこと、そして自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まないことをやはり期待している。そうした断絶は、物語全体のいかなる面白味も取り去ってしまいかねないからだ。」と述べていたが、それはあくまで小説単位で、あるいは書き手の視点でSFというものを見ているからである。我々SFファンが好きなのはまさにSFというジャンルそのものなのだ。そして複数の様々なタイプのSF小説に親しむことで、言い換えればSFというものをメタ的に捉えることによって、我々はSFがSFであるところの「偶然性こそが絶対的であり必然的である」という位置に立つことができるのである。その意味ではSF自体がXSFであるといういい方もできよう。そしてこの両者はどちらが上位概念でどちらが下位概念かというようなメタ関係ではない。外部=矛盾も含んだ関係という意味でむしろ「メタ」というよりも「パタ」と言った方がいいかもしれない。パタフィジックの世界がSFと相性が良いのもこのあたりにその一因があるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?