アマゾンプライムお薦めビデオ② 98:「映画」を超えた映画としての『子宮に沈める』
『子宮に沈める』衝撃的なタイトルだし、事実衝撃的な映画である。衝撃的過ぎてだれにでもお勧めできるというものではないが、今回は敢えてこの映画を取り上げてお勧めしたい。
人は映画を見るとき、理性で見る、あるいは知性で見る。つまり、これは映画だ、これはフィクションだということを分かった上で見る。だからこそ、我々は「映画」というものを楽しめるのである。
しかしこの映画はそれを拒否する。これは許せない、これはダメ、これをやったら絶対ダメ、という気持ちにさせる。つまり、我々をマジにさせる。本気にさせる。理性ではなく感情的にさせる映画なのである。
その意味ではドキュメンタリーに近いであろう。事実、カメラをわざと「そこじゃないだろう」という位置に置いたり、いわゆる「映画」であればしっかりと顔を映すべきところを敢えて映さないなど、ドキュメンタリー的な手法が多々用いられている。その意味では是枝裕和監督の一連の映画、特に『誰も知らない』を思い起こす人は多いだろう。しかし、この映画はさらにその一歩先を行っている。『誰も知らない』はまだ「映画」として見ることができた。子供たちはまだ無名の子たちだったが、Youさんなど、我々が顔を知っている人が出ていたからかもしれない。一方、こちらの『子宮に沈める』はその出演者がほぼ無名の人たちである。そこがまたドキュメンタリー性、あるいは「非映画性」を強めているのかもしれない。
「映画」であれば、それを見る人はそこに出てくる人がどんなに悪いことをしていてもその人物にある程度は感情移入できる。というか、いかに感情移入させるかが映画監督の腕の見せ所なのでもあろう。しかし、この映画はそうではない。というか恐らく最初からそれを狙ってさえいない。ここにあるのは「物語」「ストーリー」という「映画」としてお定まりのものではなく、単なる「事実」である。そう、この映画は単なる「事実」を単なる「事実」として突きつけてくる映画なのである。だからこその困惑(理性や知性では対応できないもの)であり、そしてそれはある意味不快、不愉快でもある。しかしそれが現実なのもまた事実であり、我々はそれを受け入れなければならない。「事実」はまさにそれがそこに存在するという意味で「事実」であり「現実」なのだから。人は単にそれに直面するしかない。「映画」のように理性や知性で対峙するのではなく、単純にそれに直面するしかない、そして直面した以上、目を背けることはできない。それが「現実」なのである。
しかし/そして、それこそがまさに我々の日々の生活であり、「生きる」ということなのでもある。我々は常に現実、事実に直面して生きざるを得ない。だからこそ、日々の生活がそのようなものだからこそ我々は「映画」のようなものを必要とするのである。そしてその点でこの映画はそのような我々が求めているような映画ではない。だからこそ、我々は困惑し、戸惑い、怒り、許せないのである。そして/しかし、だからこそこの映画は「映画」としても傑作となっているのである。「映画」を超えた映画がここにはある。「これが映画だ」ということは言えないし、言いたくはない。しかし、たしかにこれも映画なのである。映画について語るものはこれを見る必要があるであろう。そのような点でもこれは「強烈な」映画である。
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