見出し画像

第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(16)

16. 第3部補稿:バーチャルアーティスト「キヌ」とVR演劇 「テアトロ・ガットネーロ-The Auction-」の衝撃

以上、第3部ではキズナアイを中心にいわゆるVチューバ―、Vライバーについて考察してきた。最後にキズナアイ以外で、「人間ではあるが人間ではない存在」、「人間/モノであると同時にモノ/人間でもある存在」、そしてその意味で「ありえないもの」「混乱するもの」「意味不明なもの」「ファンタスティックなもの」であり「パタフィジック」な存在であるVチューバ―、Vライバーについて考えさせられる契機となった事例を記録のためにもさらに2例紹介しておきたい。一つは2021年12月11日、12日の週末に2日に渡り行われたサンリオ主催の「ヴァーチャルフェス」というイベントでのヴァーチャルアーティスト(本人はキズナアイ同様「バーチャルYouTuber」を名乗っているらしい)の「キヌ」のパフォーマンスと、もう一つは2022年1月14日(金)から全10回に渡りVR Chat上で上演された舞台「テアトロ・ガットネーロ-The Auction-」の公演である。正確には後者はVR上ではなく後からYoutube配信で見たのだが、それでも十分に衝撃的であった。

キヌのヴァーチャルフェスでのパフォーマンス(というか正確に言えばVR演出)はまさに圧巻であった。いわゆる「かわいい」を期待してこのサンリオのイベント(事実、バーチャル空間上のサンリオピューロランドにおいてこのイベントは行われた)に来た観衆からは、「なにこれ!」「すげえ!」といった驚きとも戸惑いとも何とも言えない声があちこちで上がっていた。言葉で説明することは難しく、こればかりは実際にVRで体験してもらうしかないのだが、小柄な体で舞台に立った「キヌ」が歌い始めると、ことば(文字)や建造物やその他諸々のものがもくもくとその周囲から沸き上がり、それらがキヌのまわりで、様々に形態や動きを変えながら旋回や点滅や消滅や再生を繰り返す、という演出である。そこでのキヌはまさにVR上での魔法使いであった。魔法使いという「ありえないもの」「ファンタスティックなもの」がまさにそこに命を持って存在していた。そしてそこで謳われていた曲のうちの一つのタイトルがまさに「バーチャルYouTuberのいのち」というものである。そこでキヌは次のように歌う(語る)
 
――――――――――――――
“それ”は草木をついばむ野鳥のように、大地を彩る白詰草のように、胡蝶舞う午後の夢のように、明日には消えてしまう思い出のように。
そんなふうにありふれた“それ”が、たしかに芽吹き存在している。
 
バーチャルYouTuberはあなたに語りかける。
あなたは“それ”を知っている。
バーチャルYouTuberは生きている。
――――――――――――――
 
そしてもう一つの「テアトロ・ガットネーロ-The Auction-」はVR空間上でアバターを使っての演劇を行う、という試みであった。当時、筆者はその衝撃を次のようにブログに記している。
 
――――――――――――――
残念ながらVRチャット上での公演は見ることができなかったのですが、Youtubeでムービーとして配信されたテアトロ・ガットネーロの公演「VR演劇/無声劇『テアトロ・ガットネーロ-The Auction-』MOVIE」を観劇しました。
 
https://www.youtube.com/watch?v=Ar4J0C2ui6M&t=3s
 
以前noteの別マガジンでカルト的な人気を誇るパペットアニメ「JUNK HEAD」でも言及しましたが、空間を作り込んでヒトやモノをそこで動かして、さらにその空間内で(その空間内にカメラが入って)映像を取れば、それはもう「映画」である、ということを改めて確認させられた次第です。これはその名の通り「MOVIE(映画)」と言っていいでしょう。
 
では、演劇とは何でしょうか、公演とは何でしょうか。それは先の言葉をひねれば、カメラの代わりに観客がその空間に直接入る、ということになるでしょう。そして/さらにVRという空間の場合、観客は「座席」という空間に固定される必要もありません。さすがにステージに上がってしまうのはまずいですが(VR内の音楽イベントでは時々そのような光景が見られますが)、観客は動き回りながら、位置を変えながらその舞台を見ることができます。今や我々は新たな観劇空間体験を手にしたと言えるでしょう。
 
そうなると、次に問題になってくるのは、その舞台に上にいるものの「存在」についてです。VR上ではない現実の舞台では、役者という人間がある役を演じています。しかし、VRの場合、特にこの『テアトロ・ガットネーロ-The Auction-』はもうちょっと複雑な構造になっています。演じているのは劇団員という体(テイ)のアバターたちです。そしてその背後には当然そのアバターを動かしている「人間」がいます。つまりここでは二重の仮面が付けられているということになります。
 
しかし、それはそもそも「仮面」なのでしょうか。名作漫画「ガラスの仮面」ではないですが、役者はその身に「ガラスの仮面」をまとうことで舞台上、あるいは画面上の「役」に憑依します。役者だけではなく、ミュージシャンなどのパフォーマーもそうでしょう。ロックスターはロックスターというガラスの仮面を身にまといます。さらに言えば「社会人」と呼ばれる存在は皆そうかもしれません。教師は教師の仮面を、ビジネスマンはビジネスマンの仮面を、タクシー運転手はタクシー運転手の仮面を身にまとって仕事についています(もちろん私もその一人です)。
 
アバターについても、特に何らかのパフォーマンスを披露しているアバターについては同じことが言えるのではないでしょうか。それはアバターであるが、役者としてのアバターであり、ミュージシャンとしてのアバターであり、Vチューバ―としてのアバターである、という捉え方です。そしてそこで「ガラスの仮面」をまとっているのはあくまでアバターです。では、そのアバターとそのアバターを操っている人間の関係はどうなっているのか。それが次なる問いになるでしょう。
 
アバターは分身であり、もう一人の自分である。今まではそう思っていましたが、どうも違うようです。アバターは自分という存在のもう一つの形というよりも、もはやアバターと言うもはやそれだけで独立した存在なのでは、そう考えた方がいいのではないか、という気がしてきました。『テアトロ・ガットネーロ-The Auction-』においては「死」こそは出てきませんが、それに近いあるショッキングな出来事が描かれます。現実世界の舞台(VR上ではない現実の舞台)や映画においては役者も観客も「死」と言うものを無邪気に受け入れることができるでしょう。なぜなら、当然ながらある「役」が死んでもその「役者」自体が死ぬわけではないからです。しかし、VRの世界ではどうでしょうか。あるアバターが何らかの形で舞台上で死んだ場合、あるいは大けがをした場合、それを我々は舞台を見ているように、映画を見ているように無邪気に受け入れられるでしょうか。『テアトロ・ガットネーロ-The Auction-』の場合は、「これはあくまで演劇ですよ」というクッションを設けることでそれを和らげていますが(というか和らげているという体(テイ)を取っているだけで、実際は「The Auction」というタイトルやテーマからもここで述べているような問いを突き付けている気がします。Movie版では省略されているようですが「『アバターとはなにか?』というテーマも込めさせていただきました。哲学的ではありますが、ぜひ考えてみてください」という説明が実際の公演の際にはあったそうです)、実際にそのようなことが起こった場合、「まあ、しょせんは仮想上の存在だから、まあ、言ってみればアバターは人形ですから」で済むでしょうか。そうは思えません。なぜなら私たちはもうすでにアバターという存在自体に「命」を見てしまっているからです。ここでいう「命」とはまさに「血肉を持つもの」という意味です。つまり我々は「役」ではなく「役者」自身としてアバターを見ているのです。アバターの死は「役」の上での死なのではなく、まさにアバター自体の死なのです。
 
とそんなことを考えさせられたVR舞台(の映画版)でした。皆さんもぜひ見て、考えてみてください。
――――――――――――――

このブログを書いた時点では、まだ、難波(2018)による「三層理論」には目を通していなかったのだが、それに近いことは既に感じていたと言えよう。そう、「考えた」のではなく、まさに「感じた」のである。この「感じる」という感覚。それこそがVRの魅力と魔力であるのだが、これについては次章で改めて検討することとしたい。

ここから先は

0字
全5部、75本の記事のそれなりの大作ですが、お値段はすべてセットで500円とお得になっています。

主に2022年から2023年3月頃までに書いたSF、アニメ、アバター(Vチューバー)、VR、メタバースについての論考をまとめました。古くな…

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?