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第4部 XR論=空間論:「実存」から「実在」へ(2)

2.「実存」から「実在」へ(2):「現象学」から「存在論」へ、そしてそれへの批判としてのポストモダン思想へ

 さて、ここで話を再び存在論、特にサルトルとそれに先立つハイデガーの存在論に戻そう。ハイデガーもサルトルも基本的にこの現象学の影響下にあることはもはや明らかであろう。そこで対象とされるのはまさに「モノ」としての「人間」である(既に見てきたように、ハイデガーの存在論もサルトルの存在論も人間の存在論である)。そしてそこにおいてエポケーされるのは「人間とはこういうものである」といったような、人間に対する「自然的態度のなす一般定立」である。そしてそのような「人間に対する自然的態度のなす一般定立」を一切抜いたモノ、すなわち単なる「モノ」、言い換えれば何でもない存在として、まずは人間を捉えるところから彼らの存在論は始まる。そしてその上で行われるのが、今度はその「意味」の解明である。そしてサルトルが見つけたその意味(=人間という存在の本質=本質存在)とは、「(人間とは)自己の存在とともに、または自己の存在を通して、存在それ自らが開示されている「存在」(=実存)となるものである」というものであった。

 しかし、サルトルのこのような人間の捉え方は、ある意味また話を振り出しに戻してしまったとも言えよう。「世界を意識との相関性において捉える」「人という「モノ自体」ではなく、人という「モノの本質」を見る」と言いながらも、「意識によって存在(=人間=世界)は変えられる」と述べている、つまりは「意識(こころ)のほうがが世界(モノ)に先立つ」と言っているように、あるいは少なくとも「人にとっては意識(こころ)のほうが重要」と言っているように聞こえてしまうからである。だからこそサルトルは「存在は本質に先立つ」とその実在論の第一原理においてヒトのモノ性=モノとしての人の存在のほうを強調しているのであるが、基本的にサルトルの言う実論の考え方では、モノがヒトになっていくことはあっても、そしてそれには積極的な「意味」、あるいは「本質」が認められても、反対にヒトがモノになっていくということのほうにには(小説としてはマロニエの根を見た時のロカンタンのような事例はあるもの)、そこには積極的な意味や「本質」を見て取ることはできないからである(しかし、逆にここにこそヒトのモノ性をみることができる。マロニエの根を不気味なものとして見てしまった時のロカンタンの反応はまさに人間の中にあるモノ性の現れである。このどちらの側面を強調するかによって(「モノのヒト化」か、「ヒトのモノ化」あるいは「モノというもの本質的な不気味さ」か)哲学者、実存主義者としてのサルトルとを区別することもできるし、この両面性にこそ小説家、戯曲家としてのサルトルとの間の葛藤というものをみてとることもできる)。

そして、このような批判、現象学も存在論も結局は人間中心主義であるという批判は、その後のいわゆるポストモダンの思想、脱構築の思想からも投げつけられるようになった。ポストモダンの思想、脱構築の思想とは、一言で言えば、「私たちはつねに特定のコンテクスト(状況や社会)に依存しており、人間の世界認識は、社会、文化、関係性、言語、身体、無意識に否応なく左右される」(岩内,2021,p.4)というものである。そしてその観点からは現象学での「世界を意識との相関性において捉える」という方法論自体、そしてその結果としての「モノ自体の本質」というもの自体が、ある特定のコンテクストからは逃れられていない、逃れられ得ない、ということになってしまう(なお、岩内(2021)はだからこそ現象学の考え方を突き詰めれば、そこからも逃れ得ると論じているが、それについては本論ではこれ以上は深入りしない)。そしてこのような考え方は、「よって、コンテクストに対する認識を変えることで社会を変えることができる」、という構築主義の考え方ともつながってくる。

しかし、これ=構築主義の考え方はある意味、開き直りなのではないだろうか。結局はそれは「意識によって世界は変えられる」つまりは「意識(こころ)が世界(モノ)に先立つ」ということを堂々と宣言してしまっているのではないか、構築主義こそが人間中心主義なのではないか、という批判である。確かに「意識(認識)によって世界は変えられる」という考え方は魅力的ではあり、そこにはサルトルの実存主義、「(人間とは)自己の存在とともに、または自己の存在を通して、存在それ自らが開示されている「存在」(=実存)となるものである」という考え方に我々が心惹かれるのと同じ魅力がある。しかし、それでも同時に我々はモノ自体の魅力、モノ自体の魔力にも惹かれ、モノにより意識が変えられる、あるいは変わるまではなくとも意識になんらかの影響があることもあることを知っている。まさにマロニエの根を見た時のロカンタンがそうであり、ファンタジーの世界やシュルレアリズムの世界、本論で言うところの「真/偽、真面目/冗談、現実/虚構などの差異を無化した価値体系の零度の地平」(原野、2008)としての「パタフィジカルとしてのファンタジックな世界」に衝撃(とまどい)を受けるのもその一例である。そしてそれは不快でもあり快感でもあり、またその逆に快感でもあり不快でもある。これまで論じてきたように、SFやアニメ、そしてVR(XR)の世界に我々が惹かれるのはそこにはその衝撃があるからである。そこは「真/偽、真面目/冗談、現実/虚構などの差異を無化した価値体系の零度の地平」(原野、2008)としての「パタフィジカルとしてのファンタジック」の地平に接しており、それ故にはそこには圧倒的なモノのモノ性が見られるからである。そしてこの「モノ性」は「他者性」と言い直すこともできよう。

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