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第3部:ここまでの振り返りと修正(8)

8.「心身二元論」を超えた上での「科学」とは?(その1)

モノ(=存在)を見る視点をミクロの視点、ネットワーク(場、世界)を見る視点をマクロの視点とすると、サルトルら哲学における存在論はミクロの視点であり、アクター・ネットワーク理論などに代表される人類学における「存在論的転回」における存在論はマクロの視点であると言えよう。しかしマクロの視点もミクロの視点で見ることができるように(図9が再び図4に回収されるように)、人類学も哲学の問題として語ることが可能である。前掲書(奥野・石倉編,2018)において大村は次のように述べている(pp.18-20)。すこし(かなり)長くなるが引用する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー   存在論とは、私たち自身も含む世界はどのようなものかという存在の論理を問う知識であり、認識論とは、私たちはその世界をどのように知るのかという認識の論理を問う知識である。世界とはこういうものだという存在論は、世界がどのように知られるのかという認識論を方向付けると同時に、その認識論によって影響を受けるというかたちで、これら存在論と認識論は相互に相互の前提となる関係にあり、両者を切り離して論じることはできない。しかし、近代の「自然/人間」の二元論に基づく学問の分業体制に従って、近代人類学の研究対象は存在論から切り離された認識論に限定されてしまっていた。
(中略)
 その結果、近代人類学の研究が進めば進むほど、唯一自然科学が明らかにする「自然」の論理だけが社会・文化に汚染されていないあるがままの唯一の「自然」の論理、つまり唯一の真なる存在論として正当化されてゆくことになる。自然科学の存在論と食い違う存在論を示す人々がいたとしても、その存在論は、自然科学の存在論からの社会・文化による逸脱として説明されてしまうからである。また、人類学の研究対象となる人々は自然科学の存在論の枠内でただ単に「自然」を解釈したり利用したり改変したりしているにすぎないことになり、その人々の実践の妥当性は自然科学の存在論を唯一の尺度に計られるようになる。こうして近代人類学は、唯一の「自然」に対して多様な「社会・文化」の解釈(宇宙論もしくは世界観)がある」とする社会・文化相対主義という名のもとで、唯一の「自然」の真なる存在論を明らかにする自然科学の担い手に、その「自然」を社会・文化的に解釈しているに過ぎない、それ以外の人々を知的に支配して植民地主義的に管理・搾取する正当な根拠を与えることになる。
 こうした近代人類学の植民地主義的な支配や管理や搾取の正当化は、自然科学の真なる存在論を唯一の尺度にそれ以外の人々の存在論をその尺度からの社会・文化による逸脱として一方的に認識論的に説明するという近代人類学の前提に起因しているため、この支配や管理や搾取に対する自己批判を行ったポストモダン人類学やポストコロニカル人類学のように、対象社会の人々の声を取り入れる形に民族誌の書き方を改めたり、分析の対象に権力関係の中での社会・文化の生成過程を組み込んだりしても、その前提が改められない限り、解消されることはない。その解消のためには、対象社会の人々の存在論を自然科学の存在論と対等な存在論と認め、自然科学を含むそれらの存在論がどのような認識論との相互関係の中で成立するかを考えることで、自然科学の存在論を相対化しつつ、それ以外の存在論を復権せなければならない。存在論をめぐる論争で他者の存在論を「真剣に受け取る」(taking seriously)ことが提唱されるのは、このためである。
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