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第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(8)
「分人」という考え方(3)
そしてこの「葛藤」はサルトルの言う実存主義の第2の定式、「人間は自由の刑に処せされている」とつながってくる(ちなみに第1の定式は「実存は本質に先立つ」である)。ここで「刑」という言葉が敢えて使われているのは「自由だからと言って決して自由に自分のやりたいようにできるわけではない。むしろそれはいばらの道である」というニュアンスが埋め込まれているからであろう。なぜなら人という存在は自由であるが,同時に他者という存在も自由であるからである。『実存主義とは何か』においてサルトルは次のように述べている。
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われわれは自由を自由のために,しかも個々の特殊事情をとおして欲する。ところが,われわれは自由を欲することによって,自由はまったく他人の自由に依拠していることを発見する。むろん,人間の定義としての自由は他人に依拠するものではないが,しかもアンガジュマンが行われるやいなや,私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。他人の自由をも同様に目的とするのでなければ,私は私の自由を目的とすることはできないのである。 (p.75)
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ここに出てくる「アンガジュマン」(engagement)とは、動詞の「アンガジェ」(engager:拘束する,巻き込む,参加させる)を「サンガジェ」(s’engager:自分を拘束する,自分を巻き込む,自分を参加させる)と代名動詞化した上でさらに名詞化したサルトルの造語である(海老坂,2020,p.76)。私が自由の名の下にアンガジュマンを行使するのであれば、同時に他者のアンガジュマンも尊重しなければいけない。そこでは当然対立や衝突、葛藤の類が生じるであろう。しかし、それでも人は実存に向けて進まざるを得ない。それがサルトルがこの実存主義の第2の定式で言わんとしているものである。
しかしサルトルの言う「他人」とはあくまで自分以外の人間のことである。サルトル自身はそこまでは論じてはいないが(サルトルはあくまで個人を単位としていたので)、分人主義の立場に立てば、サルトルの言う「他人」は自分自身の「分人」にも当てはまることになる。つまり「私は私のある分人の自由と同時に私の他の分人の自由を望まないではいられなくなる。私の分人全ての自由をも同様に目的とするのでなければ,私は私の自由を目的とすることはできないのである。」ということになる。そしてこれこそがまさに小説『ドーン』で主人公の妻が言っていた「堂々巡り」である。そしてこの問題を解決するには分人主義のもう一つの形である「多分人主義(multidividualism)」のほうに振り切らざるを得ない。これはこの分人、それはその分人の話だから、とすることで(割り切ることで)対立や衝突をなくすという方策である。そしてここで話をキズナアイの分裂騒動に戻すと、運営側は「分人」という概念をこちらの「多分人主義(multidividualism)」として捉えていたのであろう。しかし、分裂騒動がまさに「分裂」と言われたように、我々人間にそのような思い切った割り切りが果たしてできるだろうか。できるのであればそれはまさに「分裂症」としてではないだろうか。
何度目かの繰り返しになるが、我々は(というか我々ファンは)もはやキズナアイを人間(=人間存在=現存在)として捉えている。言い換えればキズナアイという存在をキャラクターとしてもペルソナとしてもではなく、もはや「パーソン」として捉えている。そして人間というものがそうであるように「パーソン」というものは決して唯一不変のものではなく、対人関係によりさまざまな分人があり、その集合体なのである。それこそが自然なあり方であり、それこそが我々が人間としてのキズナアイにも求めているあり方=生き方なのである。そしてその生き方は自由の刑に処せられたいばらの道である。分裂症に逃げるのは(というかそこまで追い詰められてしまったから逃げるというか逃げざるを得ないわけではあるが)ある意味楽である(余談だが、その意味でサルトルとボーヴォワールとの間の「自由恋愛」は「恋愛」といういばらの道からのある種の逃げである(恋愛に伴う嫉妬も含む激しい感情をある意味棚上げにしている)とも指摘できる)。人間、あるいはVチューバ―のように人間的な存在として実存を目指す以上、その存在が生きている世界、生きざるを得ない世界は「多分人主義(multidividualism)」としての分人主義の世界ではなく「分人多元主義(dividual-pluralism)」としての分人主義なのである。
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