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SF名作を読もう!(23) 名作は生まれた時点で既に名作!間宮改衣著『ここはすべての夜明け前』

基本的にこのマガジンではSF小説の歴史に残る名作を紹介しているが、今回するのはまだ発売されて間もないが、既に名作として後世に残ることがはっきりしている作品である。昨年の早川SFコンテストで特別賞を受賞し、この3月に発刊された、間宮改衣著『ここはすべての夜明け前』である。

前回、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を紹介した際、そのテーマは『人間とは何か?』であるとし、その一つの回答として「人間性を持つものは人間である」と述べた。そして同時に「「人間性」を人間であることの条件としてしまうのは、実は危険なこと」であるとも述べた。この間宮氏の小説も、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とは全く別の形を取りながらもそのテーマ、文学作品における1ジャンルとしてのSF小説における永遠のテーマである「人間とは何か?」に、淡々と、しかし切実に迫っている。そう、SFとはアンドロイドやロボットや地球外生命体と言ったものを通して、「人間」を描くジャンルなのでもある。

この作品、とにかく読んで欲しいので中身には触れないが、基本的にはある一人の女性のおしゃべり(あるいはしゃべるように書いた)の記録である。この女性、自分でもそう述べているように、子供のころからしゃべるのが好きな人だった。しかし、人は誰に向けて、何のためにしゃべるのだろうか。

一般的にはそれはある特定の人に、何らかのメッセージを伝えるためだとされている。しかしいわゆる「おしゃべり」にはメッセージ自体よりも、話している行為自体が楽しい、という側面もある。それも一般的には聞いてくれる人がいるが故だとされるが、しかし、本当にそうだろうか。人はだれも聞いている人がいなくてもしゃべるのではないだろうか。いや、しゃべらなければ生きていけないのではないだろうか。つまりは逆に言えば、人は生きるためにしゃべるのではないだろうか。

しゃべるのと書くのとは違う。またしゃべることと書くことも違う。強いて言えば、人はしゃべりながら考える。そして考えたことを書く。つまりしゃべるということは考えるために必要な手段なのである。もちろん言葉自体は発しないで、頭の中でしゃべっている人もいるであろう。しかし私に言わせれば、それもしゃべることである。

しかし、同時に人は別に考えるためにしゃべっているわけではない、という点も強調しておく必要はあろう。そう、しゃべるということは思考のための手段の一つではあるが目的ではないのである。しかし、その思考としての目的ではないおしゃべりが、思考へとつながることはある。つながってしまう、という言い方をした方が正しいだろうか。そしてそこでの思考は、おしゃべり自体がそうであるように決して論理的な思考ではない。むしろ、この小説にも象徴的に出てくるように「夢」に近いもののかもしれない。しゃべることで出てきた断片的なイメージが決して論理的な形ではないが、一つにつながり、それが結果としての「思い(想い)」や「考え」となる。この作品ではもう一つ象徴的に将棋の話、特にAIと人間との「電脳戦」のエピソードもでてくるが、決して論理的に考えることのみが(もちろんそれも大切だが)将棋の勝ち負けを決めるわけではない(一応、今のところは、と言っておいた方がいいかもしれないが)。将棋の名人の思考がどうなっているかはいずれ脳科学が説明してくれるかもしれないが、おそらく前述の「夢」の思考のようなものに近いのではないだろうか。そしてこの小説自体が、そのような「「夢」の思考」のようなものとなっている。もちろんそうするための書き方というかテクニックは使用しているのであるが、読んでいる我々はこの主人公のおしゃべりを通して、その人の夢のような思考の中へと引きづりこまれる。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』間宮氏がこの作品を書くにあたって、このフィリップ・K・ディックの作品を意識したかどうかは定かではないが、奇しくも両者は「夢」というキーワードでつながる。そして「夢」というものがそうであるように、それはどこか切ないものである。




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