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第5部補稿:「キズナアイ」からの「#KZN」という展開と「複人」「複世界」について

2022年2月26日(土)に開催された「Kizuna AI The Last Live “hello,world 2022”」を持って活動休止(スリープ)状態に入ったキズナアイであるが、その声を使ったいわゆるボーカロイド(商品名としては「Singaroid」)としての「#KZN」(通称「キズナちゃん」が2022年8月8日に先行発売される形で動き出した。

このキズナアイの「展開」は本論で述べてきた「複人」「複世界」の観点からも非常に興味深い「展開」である。そもそも「キズナアイ」自体がいわゆる「バーチャルキャラクター」である。しかし、それはもはや「キャラクター」と言えるような存在を超え「人間」そのものと言ってもいい存在になった。もちろんいわゆる「中の人」というべき存在がそこにいることはもちろん我々も了解している。しかし、姿かたちを持ったキャラが自由に動き、自分の声を持ち、自分の意志で話す、これはもはや本論で述べてきたところのアバターとしての実存のあり方そのものである。いわゆる漫画やアニメのキャラはあくまでストーリーの中において存在し、その意味ではあくまで漫画やアニメという世界(枠組み)の中での存在に過ぎなかった。故に二次創作という形を通して、我々はそこに我々なりの「命」を吹き込もうとしてきた。しかし、キズナアイは違った。それはたしかに「キャラ」ではあるが、ストーリーによって「命」が吹き込まれるタイプのキャラではない。ストーリーはむしろキズナアイ自身の「活動」によって事後的に作り出されるのである。そしてその「活動」はまさに、我々、こちら側の人間とのコミュニケーション、インターアクションから生まれているのである。改めて、オフィシャルウェブサイトからその活動の軌跡を見てみると確認できるように、キズナアイという「タレント」はYouTuberとしてデビューしてから、CMデビュー、声優デビュー、歌手デビュー、TV番組の司会、写真集発売、ライブ活動とその活動の幅を広げてきた。そしてそれは決してある作者によって「書かれた」「作られた」ストーリではない。活動停止も含めた一連の活動の中で「生まれてきた」ストーリーなのである。つまり、キズナアイはキャラが命を持ったのではなく、初めから命を持って生まれてきたキャラなのである。そしてその活動を通してサルトル的に言うところの「実存」を形成してきたのである。

そして、その活動停止中、今回新たに生まれたのが「キズナちゃん」こと「#KZN」である。これはあくまで「商品」であり、一応図柄としての姿かたちはある者のまだ「キャラ」にはなってないし、当然「タレント」でもない。また、これは「キズナアイの声」としての商品ではあるが、しかし「キズナアイ」を名乗るのではなく、敢えて「キズナちゃん」という別名を名乗っている。ここに我々は違和感を覚えるとともに、新たな可能性をも感じ取ることができる。

キズナアイ以前に遡るが、あのバーチャルアイドルの先駆けである初音ミクは発売当初はあくまで「商品」に過ぎなかった。しかし、その「声」とパッケージに書かれた魅力的なイラストが組み合わされた時、それは「キャラ」になった。そしてその「キャラ」は当時人気だったニコニコ動画の「歌ってみた」「踊ってみた」を主な舞台として成長していった。しかし、初音ミクはキズナアイのように人間化、タレント化することはなかった。初音ミクは人間化、タレント化する方向、つまりは「個人化」「実存化」する方向ではなく、「複数化(複人化)」する方向で進化(成長)したと言えよう。つまり、キズナアイの場合は、YouTuberとして活躍するキズナアイと、歌手として活動するキズナアイと、さらにはCMモデルとして活動するキズナアイはあくまで「キズナアイ」という同一人物である。しかし、初音ミクの場合は、この曲とあの曲では同じ「初音ミク」であっても別の存在であり、またゲーム作品やコンサート、さらには歌舞伎の舞台にまでも登場することがあるが、これらはすべて「初音ミク」ではあるが、その存在は同じではない初音ミクである。事実、初音ミクの場合は、作品ごとに絵柄やイメージが少しずつ違っていても良いし、事実違っている。一方キズナアイの場合はその「顔」やスタイルの違いは許されないであろう。

そして、今度は「キズナちゃん」こと「#KZN」である。おそらくこの「#KZN」はボーカロイドということもあり、「初音ミク」的な方向で今後展開していくことだろう。しかし、ここで注目したいのは「#KZN」には「キズナアイ」というその元となる存在がいることである。繰り返すが、「#KZN」は「キズナアイ」の声を使用した商品である。しかし、それは「キズナアイ」の姿かたちを持つのではなく「キズナちゃん」という別の姿かたちを持っている(というか持たされている)。この状態を私たちはどう捉えればいいのだろうか。

私見ではあるが、恐らくそこで出てくるのが「複人」に次ぐ「複世界」という概念であろう。キズナアイは我々の世界に、我々と同じ「人間」「一個人」として存在した。一方初音ミクは「複人」として複数が同時に存在したが、その存在した世界は、やはり我々「人間」の世界であった。そして今度の「キズナちゃん」こと「#KZN」は「複人」として我々の世界に存在するようになるだろうという点では、初音ミクと重なるが、しかし、それが生まれてくる場所は、キズナアイが作り出した「世界」、キズナアイが存在しなければ成り立たない世界であり、その意味で、我々人間にとっても、その世界はある意味もう一つのありうべき世界、可能世界なのである。

もちろんこのような設定(「キズナちゃん」こと「#KZN」の設定)自体が「空想」であり「想像」である。しかし、メイヤスーの言を借りるまでもなく、我々人間はまさにこの「想像力」を持って、世界を作り出せる存在なのである。キズナアイを知った上でキズナちゃんを聞く(見る)ことで、我々はその可能性としての、想像性としてのもう一つの世界に行くことができるのである。モノが意識を制限する世界、意識がモノを制限する世界としての「相関主義」の世界から、我々人間は「想像力」という「意識」を使うことによってそこから抜け出すことが可能なのである。「エクストロ=サイエンスの世界が、そしてこうした世界が複数あることさえもが、想像可能」なのである。

「キズナちゃん」こと「#KZN」には、その契機となる可能性が秘められている。なお、発売を記念していくつかのコンテストも開催されるとのことである。また、2023年2月にはファーストライブも開催されるとのことである。今後の展開に注目である。



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