ジャッジを減らして軽くなる

ジャッジを減らすと人は軽くなる。


ジャッジとは、

〇〇であるべき

と、自分を縛りつける思考のこと。


〇〇であるべきと思ってる時、
人は、心も体も硬直して硬くなる。


だって、そのべき対象から、
ハズレちゃいけないんだもん。


〇〇の箇所には、


優秀
優しい
強い
思いやりがある
強い
頭いい
真面目
勤勉
しっかりしてる
ゆとりがある
おおらか
誠実


あたりが、入るだろうか。

このべきべき思考の罠には、
真面目な人ほどハマる。



でも、項目が増えれば増えるほど、
本人もきついし、周りの人もきつい。


いちいちジャッジして裁くことになるから。


例えば赤色をこよなく愛している人がいて。
赤以外は色じゃない!という思想があって。


赤色の服しか着ないし、
赤のグッズしか持たないし、
赤の車にしか乗らない


とか、やってたとする。


赤を選ばないやつを軽蔑してるし、
自分が赤を選べなかった時は、
激烈に自分を責める!


とか、やってたら、


ばかじゃねえのか?


って思うかもしれない。
でも、この赤に該当するものが、さっきの望ましそうに見える人の要素だとしたら?


けっこう同じようなことやってるのだ。


ジャッジとは、
一つの基準を正しいと信じていて、
そこから外れた対象を厳しく裁くこと。


だから、毎日自分も他人も裁判してることになる。


裁判の日々は疲れる。



そのジャッジする対象が1つならまだ良いけど、
100個、1000個あるとしたら?


これは、おぞましく生きづらくなる。


だから、一つ一つべきを減らす。


全部じゃなく、一つ一つ。


近頃イラついたことがあったとしたら、
その裏にはべきが潜んでいる。


イラつくのそばにべきはいる。


例えば、レジ待ちで時間がかかってイラついたとする。その裏には、レジはスムーズに早く終えるべきのジャッジがある。


休日にくだらない時間を過ごして、
無駄に過ごしたと感じてイラついたら、
休日は有意義に過ごすべきが潜んでいる。


イラついた時はわかりやすくべきがいる。


だから、イラついた時に立ち止まる。


今、自分はなんの「べき」を持ってるんだろ?と。


ガッカリの裏にもべきは潜んでいる。


デート誘ったのにバックレられて、ガッカリの裏にはデート誘ったら成功するべきがある。

初めて何か挑戦したけど、上手くいかなくてガッカリの裏には、なんでも初めから上手くやるべきが潜んでる。


だから、ガッカリが出た時も立ち止まる


今、自分はなんの「べき」を持っているのだろう?と。


そうやって、一つ一つ「べき」を発見していくと、
自分が勝手に決めつけた「べき」に振り回されていることに気づいていく。


で、自分に言ってやるのだ。


「どっちだっていい」


べきの反対は多様な選択肢の肯定だ。


自分が決めつけた世界の外側を楽しむ


ということでもある。


赤色着てもいいし、青着ても良いと様々な選択肢を肯定できると、ジャッジは減っていく。


レジが遅くなっても良いし、
休日くだらない時間を過ごしても良いし、
デートに振られても良いし、
挑戦がしくっても良い。


となると、責める対象がなくなる。


実際にべきから外れた方が可能性が広がることだって多い。


レジ待ちしてる時に読んだ記事が面白かった
休日にくだらない時間過ごして疲れがとれた
振られたけど、次に出会った人の方がしっくりくる人だった
挑戦をしくったから、工夫する面白さを知る


とか。


まあ、それらが得られなくても、


〇〇であるべき


から、外れた瞬間に気が楽になる。


あー、別に思い通りにしなくていいのね。

って感じで。



ジャッジが減れば減るほど別の選択肢も面白がれる。


ジャッジが増えれば増えるほど、一択のしんどい選択をし続けることになる。


そして、そのジャッジをしてしまう自分すら、
まあ、ジャッジしちゃうよね。してもしなくても良いさ!


と、なれれば、より気楽になる。



人は、ほっといてもジャッジをするし、
全てのことをノージャッジで生きていくのは、
不可能と言って良いだろう。



でも、ジャッジの分量を減らすことで、
確実に心は軽くなる。


そう、心がゆるんでいくのだ。


〇〇でも良いし他でも良い


これ、おまじないの様に言ってると癖になる。



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