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アウディに乗る妻と中年男①

20代の終わり。俺の商売は完全に行き詰まっていた。お金に困り果て、食べるものにも事欠く始末。やむをえず知人にバイトを紹介してもらい短期間だけ小銭を稼ぎ食いつなぐことにした。
情けないもんだ。

紹介されたバイトは探偵事務所だった。
この時代は個人情報保護法もなく、いい加減で胡散臭い事務所が沢山あったらしい。

俺がバイトに行ったのは、正直なところ反社じみた事務所だったと思う。
雑居ビルの三階にあるオフィスに看板はなく、入口は常にカギがかけられていた。事務所の中には金属バットが3本もあった。社長は口ひげを生やしオールバックに髪を撫でつけ、ひっきりなしに煙草を吹かす50代のおじさんだった。
当時の50代は、現代の50代とはわけが違う。何もかもがぎっとぎとなのだ。この社長もまた金の指輪、金の腕時計。顔面はギラギラして脂ぎっていた。
夜の世界にいた俺でも「ああ、このバイトは失敗したかもな」と思ってしまうほど、事務所は胡散臭さで満ちていた。

同じフロアにあった消費者金融の社員達もなかなかの面子揃いだったが、廊下で鉢合わせると絶対にこちらと目を合わせなかった。社長の見た目のせいだ。渡世の方々の事務所だと思われていたのだろう。

当時は個人情報保護法や探偵業法など存在しない時代だ。今では考えられないような不正な調査方法もあったと思う。あまり多くのことは書けないが、お金を渡せば個人情報を渡してくれる人はどの業界にもいるのだと知った。

調査料金のことについて俺は知る由もなかったが、かなり高額だったと思う。調査の手間や人件費、必要経費が莫大で、これに利益が乗ったらかなりの料金になると馬鹿な俺でも分かった。だから依頼主は企業か、裕福な個人に限られた。会社員世帯の主婦が夫の浮気調査を気軽に依頼するような時代ではない。

11月のある日、俺が頼まれた仕事は浮気調査だった。
この事務所が引き受ける浮気調査だから、普通の人の普通の浮気ではないことくらい想像できる。

俺のようなバイトには依頼内容や状況の全容は知らされない。言われた作業をバレないようにこなすだけ。

俺が任されたのは、「調査対象が逢瀬している現場」を「本人に気づかれることなく」「時間と場所を記録して」「肉体関係の証拠となる写真を」「複数回に渡って収集すること」だった。
なんてことない。肉体関係があるということを確認しろということだ。

全容は分からないものの、俺が受け取った事前情報としては

・女性の年齢は34歳
・女性の車はアウディA3、黄色
・自宅から毎晩外出する
・行先が分からないので尾行すること
・肉体関係の証拠(ラブホテルの入りと出の写真を撮る)
・不貞の相手の男の自宅を調べる

というものだった。

女性の名前と住所を聞いて、驚いた。俺はこの女性を知っていた。

俺のうだつの上がらない商売の関係で、この女性と一度会ったことがある。この夫に俺の扱う商品を買ってほしくて近づいたのだが、あっけなく門前払いされたのだ。
夫は地元で有名な開業医、妻は専業主婦。妻の父親は現役の地方議員。子供はいない。妻は若作りをしていて、普段は無表情で愛想がない。

あの女、不倫してんのか。それも夫から調査を頼まれていて、すげえもんだな。俺はそう思った。

知っている女だし、調査は簡単に終わるだろうと思った。
どういう事情があるのかは知らないし興味もないが、俺がやる作業などアホでもできる。さっさと片付けてしまおう。

星がきれいな秋の日。21時。
俺は女の自宅が見えるコインランドリーの駐車場にいた。コインランドリーの名前は「泡姫」
この名前はいかがなものかと思いながら女が出かけるのを待ち構えていた。
自宅のガレージが開き、アウディが動き出した。

「女が出てきた」と、助手席に乗っているバイトの先輩、史織が俺に言う。

史織は当時24歳。背が小さく可愛らしい顔立ちの女だが、このバイトはもう3年やっているという。とかく俺に先輩風を吹かせるので気にいらないが、仕事ができるのは確かだ。会話も大人で無駄がなく、それでいてウェットな人間関係も築けるような女。つまり頭のいい女だ。
社長は史織をいたく気にいっている。

俺は古いカローラワゴンを発進させ、アウディの後をつけた。

女性は尾行されていることに気づかないものだろうか。着いたのは自宅から約30分ほど離れた場所にある、田舎の町営体育館の駐車場。街灯が一個しかない、薄暗い駐車場だ。
俺もその駐車場に車を停めると相手に気づかれてしまう。史織が遠くに路上駐車をしてと言うのでその通りにした。そして闇に紛れて2人で歩く。
2人とも全身黒い服を着て黒いキャップを被っている。俺は黒縁の眼鏡までしていた。まるでスパイ映画のコスプレなんだが、実際黒い服はこういう時に役に立つ。
スパイコスプレの2人は体育館の暗い物陰に潜み、アウディを眺めていた。

「ここに男が来るんだろうね」史織が言う。
「へえ、こんなさびれた場所で密会とはね・・・」俺は関心する。

史織は小さなカメラを持っている。黒い服を着た二人がカメラを持って物陰に隠れている姿をもし警官が見つけたら、言い訳に困るよな・・・そんなどうでもいいことを考えていたらなぜか笑いが込み上げてきた。面白い要素が何もないのに。

「変な声出すなよアキラ」史織が怒る。
「いや、なんか緊張のせいでツボに入っちゃって・・・ごめんごめん」

そのとき、すごい勢いで車が駐車場に入ってきた。三菱のリベロかなにか、ボディカラーはグレーであろう営業バンだった。調子の悪そうなエンジン音が響いている。
リベロはアウディの横に停まる。

するとアウディのエンジンが止まり、女が降りてきた。ひざ上丈の白いスカートを履いている。やっぱりあの女だ。顔はおばさんだが、スタイルはいい。いいケツをしている。胸もでかい。
瀟洒な女が不潔そうなリベロに乗り込む。

「お、乗った」俺が言う。
「運転手は男?」史織が言う。
「え、男かどうかって、そこから?」
「女かもしれないじゃない」
運転手が男か女かは判断できなかった。まあ、運転の仕方といい、臭そうな車といい、こんな場所といい、女同士ではないだろう。

とりあえずアウディとリベロの並びを史織が撮影した。この場所を証拠として残すために体育館の建物をバックにまた一枚。

だがこれだけでは男と逢瀬している証拠にはならないらしい。
肉体関係を持っていることを証拠として撮影しろという指示なのだ。もしからしたらこれから車を発進させラブホテルに行くのかもしれない。
「車、持ってこようか?」俺は史織に訊くが、史織は黙ってリベロを見つめている。

「見て」史織が突然小さな声で言う。

運転席で白い肌が見えた。街灯の灯りにわずかに照らされている。
女が上半身をあらわにして男の上に乗っかっているのだろう。見えたのは女の背中だった。

「カーセックスするタイプの不倫か」史織が小さな声で笑う。

これを撮影すれば仕事は終わりになるものだと、俺は思った。しかしそうは簡単ではないらしい。二人の顔を撮影しなければ、いくら女の背中を撮影したところで肉体関係にある証拠とはならないらしい。

「女は金持ちのはずなのにカーセックスか」俺は史織に言った。
「そういう癖になった人達っているものだよ」史織が言う。
確かに不倫だろうと普通の交際だろうと、セックスはやり方も場所もパターン化するもんだ。金の問題じゃない。

リベロの後部座席のガラスにはフィルムが張られていて中の様子は撮影できない。フロントガラスから撮影するのは危険すぎる。女性が裸になって騎乗位で動いているのは分かったとしても、「セックスしているとは限らない」わけだ。裸踊りかもしれない。
裸踊り同好会の2人であれば、不貞とは言い切れない。

「今日の機材では無理そうだね」史織がカメラをバッグに収めてしまった。

23時30分頃になって、リベロのドアが開いた。女が降り、アウディに戻る。やっぱりいいケツをしている。
「俺にも一発やらせろよ」と俺は心の中で言った。
女がエンジンをかける前にリベロはまたすごい勢いで駐車場が出ていく。また調子の悪そうなエンジン音を唸らせ遠くに走り去っていった。

普通、女が帰るのを見届けてから、男が帰るものじゃないのか。そう思った。

やがてアウディも走り出し、男と反対方向に去っていった。

2人がいなくなった町営体育館の駐車場は音もなく静かになった。

「明日もきっとここに来るよ。そしてまたセックスする。近づいて音声と二人の絡みを撮影できればいいんだけど」史織が言う。

「俺が近づいて撮影するよ」

「盗撮にならないか社長に聞いておくよ。無断で猥褻行為を撮影するのがどこまで合法なのか確認してからね」

「へえ、そんなもんなんだね」
俺は素直に関心した。そうか、不倫調査とはいえ無断で他人のセックスを撮影したら盗撮かもしれないのか。

史織と俺も帽子を脱ぎ、とぼとぼ歩いて車に戻った。

2人で事務所に戻り機材を戻してから、近所のラーメン屋に寄った。深夜のラーメン屋は会話する人も少なく、店のスピーカーから深夜のAMラジオが流れていた。
俺は今日の調査でふと疑問に思ったことがあったので、それを史織に訊いてみた。

「今日みたいな調査ってさ、あんなことを調べて何になるの?安くないんだろ頼むと」

「そうだね、100万円はすると思う。でもそれをもとにあの女性の夫が、浮気相手の男を訴えるんじゃないのかな。でもね、慰謝料なんて200万円も取れたらいいほう。それも不倫が原因で離婚したらの話。離婚していないなら慰謝料なんてろくに取れないよ。調査費用の方が高いんだよね」

「そうだよね。でもそれで相手の男を訴えたら、自分の妻との関係も終わるよな。仲直りなんてありえない。それに相手が既婚者なら相手側の妻からもアウディ妻は訴えられることになる。依頼主の夫は自分に得がないのになぜ調査なんてするんだろうか」

「アキラはよくそんなことに気が付いたね。そうだね・・・依頼して浮気の事実を掴んだとしても、相手を訴えるどころか自分の配偶者にすらその事実を突きつけない人が多いのよ」

「ああ、そうだと思う」

「アキラが言うとおり、そんなことをしたら関係が終わるから。それに相手の配偶者も怒鳴り込んできたりトラブルが深刻化すると思えば、気後れするのもあるみたい」

史織は餃子をタレにたっぷり浸してから口に入れた。そしてまた言う。

「怒りに任せて探偵事務所に調査を頼むのは誰でもできるけど、そこから先はみんな勇気がないものよ」

史織が言う通り、そんなものなのだろう。配偶者の浮気を知って怒り狂ったところで冷静な判断なんかできるわけがない。馬鹿丸出しで変な行動をするもんだ。男なんてそんなものだよ。そういう時の男は自分が何をしたいかさえ分からない。探偵社に調査を依頼したところで何が目的なのか分かってないはずだ。

まして親が議員、自分は開業医だ。醜聞を広めたくないだろう。

「また明日ね」
史織とラーメン屋の前で別れ、それぞれ反対方向に帰っていった。

俺はアウディ妻のデカい胸を思い出しながら家に帰った。


翌日、社長からカーセックスを撮影していいという許可が下りた。許可なんて言っても、社長がろくに考えもせずにやれと言ってるだけだ。なにせ結果を出さないと依頼主から金がもらえなくなるのだから。

昨晩の様子から想像すると今日もまたあの体育館の駐車場に来るはずだ。
アウディとリベロが来るよりも前に駐車場にいて、今日は車の中からじっくりと観察することにした。史織が今日は二台の車で行くことにすると言った。昨日は駐車場の暗い隅の方に車が置かれていたから室内が見えなかった、だから今日は史織のクルマを先に隅に置いておき、アウディ妻たちの車は街灯の下の明るいところに停めざるをえないようにするのだと言う。

「頭いいなあ」俺は感心した。

史織は俺のカローラワゴンに乗り込み、彼らが来るのを待った。

予想通りまた黄色いアウディがやって来た。既に駐車してある史織の車を見て、アウディ妻が戸惑ったのが見て取れた。やむを得ないと思ったのか街灯のそばに停める。アウディの黄色がよく分かる。
その10分後にリベロが猛スピードで入って来た。
アウディ妻が車から降りる。
おやおや、今日はずいぶんとお洒落なワンピースだこと。今日もいいケツしてる。ほんとやらせろよ、と思った。

「パンツを脱ぎやすいようにスカートかワンピースなんだね」と史織が笑って言う。
そしてしばらくするとリベロが揺れる。
史織は車を降りた。
低い姿勢でゆっくりと近づいていき、助手席側からカメラを車内に向けた。

そしてまたゆっくりと低い姿勢で戻って来る。

「やってたよ。今日は男が上だった」

「器用だな。車内で正常位か」

「アウディ女はいい鳴き声してたよ」

デジタルカメラの画面を見せてもらうと、なるほど、おっさんがケツを出して腰を振っている。ワンピースの女は胸も出している。
おいおい、たまんねえな。

これで肉体関係の証拠は掴んだ。
あとは男の自宅を調べること。

昨日と同じ23時30分。二人が帰る時間になった。
リベロが走り出す前に俺は車を出し、昨日リベロが帰っていった方角に先に走り出した。
数分後、リベロがすごいスピードで追い上げてくる。車間距離を詰め、俺の車を煽った挙句に追い越していった。俺もスピードを上げてリベロについていく。田舎町なので少し離れても見失うことはなかった。
自宅を突き止めるのは案外簡単だった。
古い二階建ての戸建てにリベロが停まり、男が降りたのを確認した。史織が撮影する。

作業ジャンパーを着た中年男だった。暗くてはっきりしないが、おそらく40代後半くらい。痩せてみすぼらしい。くわえた煙草の火が赤く燃えていた。
二階建ての古い民家の前には、みるからにボロいワゴンRも停まっていた。おそらくこの男の妻のものだろう。家の灯りは消えている。

「貧乏そうな男だね」史織が言う。
「金持ちの妻が、貧乏な男と不倫して毎日カーセックスか」

金持ちの妻がアウディに乗って貧乏な男に会いに行く。男と女ってのは分からないもんだな。俺もそういう世界で仕事をしているからよく分かるよ。史織には俺の素性は伝えていないけれど。

俺は18歳からそんな世界を見てきた。金持ちのおばさんが孤独を感じれば、どんなに相手が貧乏でみすぼらしい男だろうが不倫にはまる。雑な逢瀬を繰り返す。
そしていずれ思い通りにいかず発狂する。
男が貧乏だろうが、ホストだろうが、ヤクザだろうが、孤独なおばさんにとっては惚れてしまったらどうでもいいものなのだろう。

翌日、また社長に報告をした。

普通の浮気調査ならこれだけの材料でも依頼主としては満足だろう。車内でセックスしている決定的な一枚がある。男の家も分かった。名前も勤務先もすぐに判明するだろう。
でもこの案件の依頼主はこれだけでは不十分だったらしい。

依頼主が社長に指示するところによると、これから2週間、毎日撮影し続けろということだった。
まだやるの?なぜ?
でもまあ、俺は暇だからいい。バイト代が俺も必要だし、淡々とやるだけのこと。

翌日から二週間、毎日、おじさんとおばさんのカーセックスを撮影し続けることになった。こんな金をかけて、依頼主は何がしたいのかは分からない。調査費用は100万円じゃ済まない。
あの貧乏そうな男を訴えてもお金なんかないのにな。

その二週間後、俺は男と女の業の深さを目撃することになった。

【つづく】

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