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教育についてあ〜だこ〜だ(9)ウララ【リレーエッセイ】

「それぞれ教育やワークショップの現場をつくってきた、岩橋由莉・五味ウララ・向坂くじらの三人が、あらためて教育について「あ〜だこ〜だ」言いあうリレーエッセイ。今回の担当は五味ウララ。もやもやと考えつつ、教育の話を飛び出して、もっと広い「あり方」のようなところへ切り込んでいきます。【隔週金曜更新】

あ〜だこ〜だ.001 2

↓前回

イテッ! 急に頭になにか当たってびっくりした〜と目を上げると、それはくじらちゃんが、ちぇっと言いながら蹴った小石でした。そんな感じでバトンを受け取ったうららです。うーん、どうしようか。

何から伝えればいいのか分からないまま時はなが〜れて、リレーエッセイ公開の前夜にこれを書いています。

正直なところ、私はやはりお二人のように「教育」に対して特別な感情や思いをあまり持ち合わせていないのです。くじらちゃんみたいに熱を持って語るべき言葉がまるで浮かんでこない。

そりゃあ40数年生きているので、記憶の倉庫に手を突っ込んで、グイッと引っ張り出してくれば、「いい教育」とか「よくしてくれた教師」とか「権力を振りかざしていた教師」とかいう風に、とりあえずのタグを付けて書き出すことはできると思うのですが、それは、書き出せるというだけであって、実際にそう感じていたとか、それが今の自分に大きく影響を及ぼしているとかいうことで書こうとするのは、ちょっと違うところに辿り着いてしまうような気がするのです。

前回のエッセイで書いた体罰教師にしたって、そういう事実があったというだけで、その教師との出会いが自分のファシリテーターとしての態度にものすごく作用しているのか? と自問自答すると、「いや、全然そんなことないな。そんなに彼らとの出会いは重要ではないし」とか思ってしまう自分がいるのです。


前回は、くじらちゃんに

「教育」全般に対して自分が抱いているような暗い気持ちの気配を感じ取っているのですが、誤解でしょうか?カウンターとして教育の場をつくっている、というような。ほんとうはみんなどこかで怒っていたり、うらんでいたり、怖いと思っていたりするんじゃないんですか?

と尋ねられたから、「はい、誤解じゃないと思います。」と答え、教育という言葉に対する抵抗感、教師=権威的でイヤ!ということをつらつらと書いていたように思います。別に、くじらちゃんに誘導尋問されて書かされたということではないですが、なんかそれなら書けそうだから書いた、みたいな。。。

なので、文章を書くということは、わたしにはすごく厄介なことです。技量の問題があるにしても、ある一面的な部分しか伝えられない。自分の中では極小のインスピレーションでしかなかったとしても、それが書くための手がかりになったばかりに、(もっと他に大きな要素がきっとあるはずなのに)さもそれをいつも考えていたふうに、なんとなーく書けてしまうから怖い。それに、おしゃべりと違って、こうやって読み物として残ってしまうし、リレーのバトンがうまくもらえているのか、うまく渡せているのか分からないから困る。

なんだか書くのがイヤで駄々をこねている人みたいになっていますが、どうせ書いて伝えるからには何か自分の真意とか確信に迫るものを出せた方がいいなぁと思ったり。。。

「教育」について、まだよちよち歩きの考察しかしてきていないわたしは、じっくりと頭のなかで言葉を醸成させていく時間が必要なのです。イメージとしては「ハンドドリップのコーヒー」みたいな感じ。フィルターの上に経験という粉をばら撒いてお湯を注いで、そこから一滴ずつ言葉が抽出されるのを待つような……。全然くじらちゃんの「クックドゥ」みたいな上手いたとえにならなかった。ハハハ〜ッ
とまぁこんな感じで、日々仕事や雑事をしながら考えましてん。そしたら、ようやく今わたしが感じていることに一番しっくりくる言葉が降りてきました。

そう、それは、ホスピタリティ です。

急にトンチンカンなことを言いだしたと思うかもしれませんが。
もう「ホスピタリティ」という言葉は見つかっただけで自分的には大満足なので、ここから先の説明が雑になるかもしれませんがご了承ください。

先日ゆりさんがFacebookでこのリレーエッセイの紹介をしていて、そこで

くじらちゃんもうららも担当するワークショップは原案時はアンチだったかもしれないですが
少なくとも実際ワークショップを行う時にはそこに固執していないんですよね (中略)
今まで何度か2人のワークショップを受けましたがとてもフェアです
たとえ起こったことに迷ったり、余裕がなかったりしたとしても
ちゃんと目の前にいる人に向かっている
(中略)
うららはね、二重にも三重にも見せないようにしてるけど
これまたほんと、人が喜ぶことを無償の喜びとしてる
ワークショップの場にもそれが出ています
現に彼女が朝に担当しているあさらぼの会は常にたくさんの人が集って本当に楽しそう!

と書いてくださっていたんですね。確固たる自信も指針もなく手探りでワークショップや場をひらく立場に立たされてきたわたしにとって、ゆりさんのこのコメントはとても嬉しいものです。

教育がやりたくて教育的な場を持っている訳ではないわたし。それを支えているもの、わたしを私たらしめているは何なんだろう?

……で思い至ったのが、ホスピタリティの精神、もてなしたいと思う気持ちなのだと気がつきました。

初回のエッセイで、私は自分が変な名前ゆえにサービス精神が旺盛になったということを書きました。まぁサービスとホスピタリティは少しニュアンスが違うような気がしますが、今日はそれ、ちょっと横に置いておいて。

私は、そもそも人が好きで、仕事も接客業ばかりしてきているし、基本的に「その人のために何かしてあげたい」「その人が喜ぶ顔がみたい」という想いで行動していることが多いと思います。即興パフォーマンスを定期的にしていたときも「このひと時だけでも楽しかった!と思って帰ってもらいたい」「お客さんが笑ったり泣いたりして気持ちが少しでも軽くなってくれたらいいな」とか、そんなことを願ってライブをやっていて、お客さんからそういう反応や感想がもらえたときが一番の歓びで、やりがいだと感じています。

つまり何が言いたいかというと、わたしは人を喜ばすことがしたいだけで、それができるのなら「教育」じゃなくてもいい、ということなんです。だから、教育もエンタメも研究所での事務局業務も、わたしにとってはあまり差がないんだと気づいたんです。
あぁ、なんかようやく自分でも腑に落ちてきた。

それで、わたしが考えるに、いい教育にはホスピタリティがあると思うんですよね、教える側に。ホスピタリティが溢れる人のひらく場は、場も拓けていく気がします。ゆりさんもくじらちゃんも、羽地さんもですけど、今日その場に集った人から受けとったものの感触によって、やろうとしていたワークショップのプランをそれに合わせて微調整したり、どうなるか分からないほうへ参加者と一緒に並んで歩いていく姿勢というのは、一方通行で画一的なサービスではなく、ホスピタリティだと思うんです。人としてのあり方みたいな話になってくるんですけど。でも究極、それに尽きると思うんですよね。


なんだか、また教育の話から遠いところへ来てしまったような気がする。でも今のわたしから絞り出せるものは結構出せた気がするので、エッセイも終われそうです。今回はこの辺でゆりさんにバトンを渡したいと思います。

なんの問いかけもなくパスを回してしまう今のわたしにホスピタリティはないな!テヘッ

(うらら)

【次回更新予定→2/19(担当:ゆり)】

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