亀岩

僕はこだわる(6)「囚われ」【羽地朝和連載コラム】

東日本大震災から9年。
この震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします
そしてお亡くなりになった方々のご家族のみなさまの深い悲しみと寂しさに想いをはせて、お祈りを捧げさせていただきます

避難をされた方々、避難解除となっても故郷を追われた方々、かけがえのない生活を奪われたみなさまが被っている苦難に対しては何もできずにいますが、無関心でないことだけはお伝えさせていただけたらと思っています

そして、いくたの苦難を経験されながら、力強く人生を歩まれているみなさまから生きる勇気をいただいていることに感謝いたします


9年経った同じ季節に、再びの社会的ショックに遭遇しています。東日本大震災と原発事故からのショックとは比べようがありませんが、社会全体が動揺し先行きが見えない不安に覆われるという面での似たようなベクトルの経験を僕はしています。この経験から、これからもこのようなショックは繰り返されるのだろうな、となんとなく考えています。これからも予測がつかないことが起こるであろう、と。それではどうするか、と考えてみました。


前回の記事「講師の仕事はミズモノ」が2/26。それからの2週間でみなさんと同じように取り巻く環境は激変しました。そして未だにその変化は進行中です。僕においては3月中に予定していた研修は全て中止もしくは延期となり、依頼を受けていたワークショップも全てキャンセルとなりました。つまり今月の売上は0となりました。
この状況から自分が受けている影響を少し冷静になって振り返ってみると、経済的なものから発生する恐れがとても大きいということに気がつきます。
コロナウィルスに感染すること、そのことはそれほど気になることではなく、通常の風邪やインフルエンザにかかるのが嫌な程度。恐れているのは、会社の仕事がない状況が続き、資金繰りがつかなくなること。これをもっとも恐れている自分がいる。わずか2週間にはなかったこんな恐れを持つようになったのはなぜなのか。自分自身は何も変わっていない。健康を害したわけではない、大切なものを失ったわけでもない。自分が罪を犯したり恥じるようなことをしたわけでもない。単に会社が潰れる可能性がほんの少し高くなったことだけがこの2週間の変化です。経済的な要素が僕が抱いている恐れの根源にあることに気がついたのですが、気がついてみるとそれはそんなに恐れるものなのか?


2、3日前にあるオンライングループの中で、もう1つのコーナーでエッセイを書かれている岩橋由莉さんが「このところの騒ぎで仕事がなくなって家にずっといるので、美味しいものを作って食べたりしてとても充実した毎日を送っている」と発言をされ、とてもたおやかな様子でした。同じ社会に生きていて、それも仕事を一緒にやったりしている人なので少しは僕と同じような境遇にいるはずなのに、この人はこれまでと何も変わらず石をひっくり返している。

自分が囚われている恐れの中にいると、それを裏付けることばかりに目が向いてしまいます。そこに気がついて客観的に自分をながめてみると、会社の経済的維持発展ばかりに意識が偏っていたあり様が、なさけなくも、滑稽に思えてきます。好きなこと、興味のあること、探求したいこと、それにわくわくすることこそが自分の人生だったはずなのに、そのために会社をつくったのに、いつのまにかそれを忘れてしまっていたようです。

さて、これからどうするか。経済的な囚われから解放され、この環境でどう生きるか。面白くなってきました。


(羽地朝和)

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