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からだと声の朗読劇 口伝え編

からだと声の朗読劇が始まった。
第1回目は口伝えと朗読の体験。

参加者の皆さんがご家族から長年聞いていた話や、地域、場所に伝わる話などを
事前に用意しておいてもらい、二人組になって相手に語る。
聞いた人が、それを皆の前で語り直す、という活動をやってみた。

やってみると、わたしには二つのことが心に残っている。

・語り手が一番伝えたいことを意識している場合と、していない場合がある。
意識している場合は、その部分がもちろんはっきりと伝わるが、
意識していない場合、
語り直されて初めて気づく、ということもあるようだ。

・聞き手は聞きながら心が大きく動いたところがどうしても残る。
相手の話を自分なりに想像しながら聞いていると、どうしても自分の想像しやすいことに置き換えたりして聞いている。
そうすることにより、自分のものとして語りやすくなるのだ。
けれどもあまりに早くにそれをやってしまうと相手の話が全く身につかないことも。

そういえば以前わたしも母から聞いた父方の曽祖父の話をこんなふうに覚えていた。
「曽祖父は趣味に生きた人でお金を散財した。それによって祖父がとても苦労をして大学へ行くお金を自分で工面した。
けれども彼は晩年は信心深くなり、高野山に何万巻と般若心経を納め、その石碑も残した」
ところが、さっき母親に確認したところ、高野山に般若心経を納めたのは、祖母の父親だそうだ。私の中でごちゃまぜになっている。
「曽祖父が趣味に生きた人かどうかはわからない。村長をしていたけれど、戦後、持っていた土地を分配することになったことや、いろいろと物入りだったせいでお金がなかったということではないか」ということだ。
以前曽祖父の家を掃除していた時、彼の日記を発見した。
「淳子がかわいい。淳子が今日こんなことをした」と孫(私にとっては叔母)のことをしたためていて、この年代の人にしてはとても正直に書いている、という印象を持ったところから、「趣味に生きた人」とわたしが思い込んだようだ。

昔行ったワークショップでも、実験的に15分くらいの長い昔話をわたしが語り、その後6人くらいで語り継ぎながらそのお話をもう一度語り直す、ということをやったことがある。
その時もわからないところはその場で創作してもらったため、みんなドキドキしながらも、気がつくと全員がお話の中に没入していた覚えがある。

テキストを語るとなると、どうしても書かれたことが中心になる。
語っていることがテキストと違わないか、そこに終始する。
自分なりに変えてしまうことはほとんどされない。
今回の活動では、聞きながらどこからが創作で、どこからがきいたことなのかわからないほど、自分のものとして皆語られていたのが印象的だった。
中心は、言葉の意味ではなく、語っている人そのものになるのだ。
語り手が面白いと思っているところはそのまま面白さが伝わるし、あやふやなところはあやふやな状態で伝わっていた。

口承物語の代表でもあるアイヌの昔話はよく、人称が途中で変わる。
「わたしは〜です。」と始まるのに、最後は「と、一羽の梟が語り死んでしまいました」となったり、「サンパヤテレケ」という話の中では弟ウサギが最初に語り、途中から同じ話をお兄さんウサギから見た視点で語り直したりしている。
人称が一貫するテキスト文化に慣れている我々は、最初戸惑うが、それらを口に出し続けることで、やがて気にならなくなっていくことに気づく。
語り手が、自分のものとして、語り始めていくと、人称の不一致などの細かいことはあまりに気にならなくなるのだ。
アイヌ文化の研究者である中川裕さんの言葉を借りれば
「アイヌのお話は語る人ごとに完結していく」
という。

今回の活動は、最後に、アイヌのお話を口承したものの記録をテキスト化したものを朗読するということをやってみた。

このアイヌのお話は、最近の昔話にはない、奇想天外なお話だ。
婚約も決まっている若い女性が別の村から来た兄弟にさらわれ、しかし、行く途中に3人とも化け物にさらわれる。女性が、「ただ食うだけではもったいないではないか。わたしは結婚しに来たのです」と夜伽をしようと化け物を誘う。女性が化け物の身体をぎゅっと抱きしめ動けないようにしてから、二人の兄弟に殺させる。ようやく3人で逃げ出せたというのに兄弟がまたもや自分の村に連れて帰ろうとするので、女性が剣を抜いて3人の戦いが何日も始まる。戦っている時にどこからか一人の女性が現れ、兄弟二人に「命を助けてもらったのに、そんなことをして恥ずかしくないのか」と諭しながらも、「それでもやりたいなら勝手にしなさい」と兄弟に武具を渡す。兄弟は武具をつけて戦う。しかしそれでも決着がつかないまま何日もたったのち、女性の兄が助けに来て、めでたく自分の村に帰って婚約者と幸せな結婚をした。
という話だ。

最初は兄と仲良く暮らしていた女性なのに、いきなり訪ねてきた兄弟が兄に二人がかりでチャランケ(話し合い)を挑み、七日目にとうとう兄が倒れて泣く泣く連れていかれるが、そこからの彼女の活躍がすごかった。
兄弟と女性をさらった化け物は、片手に3人を抱き抱え、もう片方には鯨を持つほどの大きさだ。その化け物を相手に女性はありったけの力を両方の足と手にこめ、鬼を抱きしめる。そうされた鬼は、身動きができなくなるのだ。
どれだけの力持ちなのだろうか。
兄弟は武具をつけて2人がかりでも何日も彼女を殺すことができない。
どれだけ強いのだ。

しかし、ふと、松浦武四郎が書いた「近世蝦夷人物史」を少し思い出す。1857年に彼が出会ってきた蝦夷の人たちを書いた(当時は出版禁止)この本を読んだ時に、ものすごくショックを受けた。
本土の役人が任務に着いた時に、アイヌの女性をさらって現地妻にしたという記述がたくさん残っているのだ。そのことに抵抗して負けたアイヌの地域や、勝ったアイヌのことなども書いている。アイヌの人たちが置かれていた大和に制圧されてからの弱い立場に思いを馳せる。自分の妻を現地妻としてさらわれても文句が言えなかったという立場。そしてそれらが当たり前のように横行していたこと。

または、英国人女性探検家イザベラ・バードが1887年に書いた「日本紀行」の中で彼女が出会ったアイヌの人たちの生活のことも思いだす。松浦武四郎から30年経った時ですら、アイヌの人たちを平気で侮蔑するような本土の人たちのコメントが載っている。それに対して彼女は、アイヌの人と接すれば接するほど、文化的に高いのはどちらなのかと疑問を持つ。

話はどんどん流れていく。
今日は「カラーパープル」という映画を見てきた。
黒人が奴隷解放されたばかりの頃の話。黒人の男性たちは尊厳を取り戻すかのように自分の身近な黒人の女性を私物化していく。そこから自由を取り戻してく黒人女性たちの物語。

ハリエット・アン・ジェイコブズが書いた「ある奴隷少女に起こった出来事」という実話も思い出した。黒人女性が、未だ奴隷として奉公しなければならない制度。それに対してどんな切り抜け方をしてきたか。

人は人を所属したい、順位をつけたいという本能からは逃れられないのだろうか。

さて、だいぶんそれていったのでアイヌの昔話へ戻そう。
この口承の昔話は、当時のアイヌの女性たちが悩まされていたことも反映されていなかっただろうかと思うのだ。
一緒に暮らす兄が兄弟のチャランケに負けると、女性はそのまま連れていかれることになる。しかし強い化け物を前にすると兄弟はあっけなく無抵抗になる。
女性は知恵と度胸で化け物を倒し、武具をつけた兄弟と何日も戦えるほど強い。しかし何度も言うように最初に兄が負けた時には、泣く泣くそのまま連れていかれてしまうのである。

このお話を声に出して読んでいると
このお話の中に幾重にも含まれているものも一緒に発しているような気持ちになる。

最終的には、テキストとして文字になっているけれど、いく人もの人の言葉で語り継がれたものの骨太さを感じるのだ。
お話はとてもコミカルであるのに、私は少し哀しくなる。
そして語っていくうちに、現代小説の辻褄を合わせるようなものから解放されていくような自由な気持ちになる。

からだと声の朗読の時間がこれからもそんな自由な場であったらうれしいと思う。











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