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谷崎潤一郎の「陰影礼賛」

陰翳が生み出す美しさ


日本の美には外国にはない侘び寂びがある。日本の美はぼんやりとした場所にぼんやりと光が灯っているように影と光が陰影と溶け合って程よく調和している。それに対して、西洋の美はすべてを光で照らしてしまい、陰影の付け入る隙を与えない。わたしは築二百年の日本家屋に住んでいるが、時折西洋住宅にはない魅力を感じる瞬間がある。上手く言葉にできないが、それを掬い上げるかのように言語化した本が谷崎潤一郎の「陰影礼賛」である。谷崎はこの本の中で表題の通り陰影を礼賛している。文字通り日本古来の光と影の調和をなぜより深く日本の土地に取り込まないのだと言っているのだ。

われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光なのである。

日本の抹茶のような濁りのある飲みものは、同じく濁りのある日本の焼き物とよく似合う。他にも、ろうそくを和紙で包んだぼんやりと光を放つ燭台などは言いしれぬ美しさであろう。西洋は全てを分けてしまうため、物事が上手く調和されている文化はあまり見ない。しかし、日本人は光と影や善と悪など物理的なものに限らず概念でさえも融合させる術を得た。そのため、日本人は陰影という文化を生み出したのだろう。ことん、と音を立てて鳴るししおどしのように、日本文化は時間とものが調和している。西洋の建築物などは立派ではあるが、常に新しくしてしまい陰った印象を与えない。

その点、日本の文化はぼんやりとした光が障子を透かすように、程よく調整された明るさが日本のものを照らしている。それは、西洋には存在しない美学であろう。谷崎は本書の中で日本の和紙についてこのように述べている。

唐紙や和紙の肌理を見ると、そこに一種の温かみを感じ、心が落ち着くようになる。同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違う。西洋紙の肌は光線を撥ね返すような趣があるが、奉書や唐紙の肌は、柔かい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る。

日本の和紙は表面がざらざらして、やや濁った色味がある。谷崎の言う通り、和紙は西洋紙に比べて柔らかな光を含んでいる。和紙の柔らかな光や肌の肌理は書くものを心地よく滑らせる。和紙の中に時々紛れ込んでいる線の筋などは、見る角度を変えると白く発光して趣があり、書道家が愛用するのも頷ける。

もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光の夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。

まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられているが如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かけそく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。

こうして谷崎の文章を引用していると、その表現力の豊かさに気付かされ、本書が現代まで読み継がれていることも頷ける。谷崎の文章の美しさと、述べている陰影が歯車のように組み合わされ、洗練されたこの本を形作っている。わたしは「陰翳礼讃」をビジュアル版と文字版と両方持っているが、ビジュアル版は谷崎が書き留めている文章の雰囲気をそっくりそのまま写真に再現している。その写真は和室をぼんやりと行燈が照らしているようなものが多く、谷崎の言う陰影とはこのようなものなのか、と視覚的に理解しやすい。


物体や時のはざまにある美しさ

われわれの思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体の作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。

物体に限らず時においても、美というものは静止した瞬間にあるのではなく、時と時のあいだの一瞬の隙にあるのだと考える。例えば、水面を魚が跳ねるとき、カメラのシャッターを魚が跳ねている一瞬の隙に切ってその瞬間を収めると良い写真が出来上がるだろう。そのように、美とは物体に付属するものではなく、ものや時の融合したときに生まれる概念なのだろう。三島由紀夫は代表作の「金閣寺」で瞬間の美と永遠の美を対比させて語っているが、瞬間の美は一瞬で消えてしまうからこそ美しさたり得るのだろう。陰翳のあやについても、光を透かすようにその陰翳を構成している物体が動くと陰翳は変わってしまう。

二つのものの結びつきで陰翳は生まれるのであって、その結びつきが変わってしまうと美も失われてしまう。そのような張り詰めた状態にあるからこそ、美は本来の美しさを取り戻すのだろうか。いずれにせよ、谷崎の言う通り美とは物体と物体の陰翳のあやにあるのだろう。

まとめ

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は日本文化を改めて知るために必読の書である。わたしたちの生活は現代化する一方だが、ネオンライトに囲まれた生活ばかりを送るのではなく、一度は行燈や灯籠でぼんやりとした光の中で生活を送ってみるのも良いのかもしれない。

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