デカルト1
デカルトの好きなところは「方法的懐疑」
あの有名なコギトエルゴスム「我思うゆえに・・・」ってやつ
「方法序説」の中に出てくる言葉ですべてを疑えってことなんだけど、
好きなところは疑っているところに本質を見出すところ。
今のように写真や映像がなかった時代だから
物が存在しているかどうかがあやふやで、
いや、実際はあやふやじゃないんだけど、疑ってみると確実にそれっていうことはできない。
今は原子レベルで解析ができるので、そうではないんだけど・・・
どんなに疑っても自分の考えている精神だけは疑いようがないっていうことなんだけど
ただ解説をしても仕方なし、大体解説はもっと得意な人がいっぱいいるし
僕は勉強しているわけでも宣教したいわけでもない。
現代にどう活かすかである。
ちょっと話は変わってしまうが、事実と主観を切り分けられない。
例えばパートナーが浮気をしている東出系男子(もしくは女子)だったとしてその事実はどんなに疑ってもわからない。
それはつまり、相手の自白を持ってしても、写真を見ても、映像を見ても
事実は事実として確実にあるけど、それを客観的普遍的事実として万人が受け入れるかというとそうではない。
要は信じるかどうかということになる。そうなってしまうと、信じるかどうかのものを事実とすることはできない。
そこでわかるのは「疑っている自分」だけは確実にいるということ。
これはある種の詭弁で、宇宙の真理よりも人間の精神が偉大という観点に基づいているので、まあ無理も多い。
かといって役に立たないかということそうでもなくて
誰が何を言ってきてもそれが真意であるかどうかは多分わからない。
だから、それをどう思い、解釈し、行動するかは自分にかかっていると
多分違うんだけど、僕はそう思っている。
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