無神経は作られる
お耳が遠いけれど補聴器を拒否する人は少なくない。なんでだろ。
年齢が行くと耳だけでなくあらゆる機能が落ちて行くのはあたりまえ。
が、ふと思い出す。若い頃から耳をあまり使っていない人が多すぎる。そうすると退化するのも早いのかも知れない。
人の話を聴かない人の声は大きい。相手や周囲に聞かせるためだけに生きているせいなのか、耳は退化して声は大きい。
が、不思議なことにこの手のタイプの人に限ってテレビは大音量でかけている。
そんな人のお宅に呼ばれてお邪魔する度に「まじか。この大音量のテレビをつけっぱなしで会話しろというのか。」と驚く。
何故なのか、臭覚も同時に麻痺している人が多い。一緒にお茶していると「このアイスティー、全然味しないね?」とマシンガントークの合間に言われてビックリした。豊かなアールグレーの紅茶の香りを今しがた「おいしいね。」と言おうとしたからだ。いや、これは臭覚というより味覚なのか?いずれにせよ段々鈍くなって行く。(何故だか分からないけど、同時に太りやすい人の方が多い。)
痛みにも鈍感なのか分からないが、よくぶつかる。よけてもよけても肩やら手やらがぶつかる。
駅のベンチに他の人が座っているのも気にせずドスン!と座るのもこの手のタイプだ。
難聴の人々が高齢なのは仕方がないのだが、高齢者以外で耳を使おうとしない人たちのことを思い出したら、話が長くなった。書いていて気が付いたけれど、以前書いた感覚のチャンネルの話だ。
聴覚派、視覚派、体感覚派。私が話していたのは、3番目の体感覚派の人たちの話なのだろう。
私は主に視覚派なので、結論を早く出したがる。目にすることが一番早く、文字通り目に見えて分かることなので、早く次に行こうよ!となる。同じことの繰り返しに耐えられないのだ。だって、もう何度も観たのだから。
一方で体感覚派の方は、何度も何度も繰り返して感じ取ろうとする。考え込んで行動しない。(だから代謝が低いのだろうか)
しかし、この方々の長所は根気強いというところだ。
私は同じことの繰り返しにはすぐに飽きてしまう。
そんな私も老眼になる年齢になった。聴きたくないから聞えなくなるという理屈があるとしたら、私は見たくないものが増えたのかも知れない。
そんなことはないぞ。誤魔化すことなくすべて観たい。この先もずっと。
チャンネルはともかく。
目も耳も、自分も大切にして生きて行こう。
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