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年頭雑感

 明けましておめでとうございます。

 年頭から、統計学と幾何代数の仕込みをしている。蕎麦屋さんが心を込めて蕎麦を打つように、鞄屋さんがより良い鞄を仕入れるように、顧客に少しでも良い商品を届けることが仕事と銘じながら。

 昨年は販路拡大には躓いたものの、統計学講座という新規事業を開始、今年は、余りの美しさに衝撃を受けた幾何代数をそれに加え、成人対象の数学講座の開設に傾注していく。

 音楽について、昨年2022年は、演奏や催事主催は抑制していた。世界でほぼ本邦にのみ残る流行病(医学的というより社会的要因)の影響もあり、この際、周辺状況を観察していた。そこで考えたことを吐き出したのが本稿だ。

 芸術「活動」

 昔から、芸術家と言えば貧乏と相場が決まっている。例外はある。文筆家でも芥川龍之介などはうまくやっていたそうだ。又はパトロン(タニマチ)を得る。又は、ゴッホのように生涯弟の世話になるか。

 勿論、芸術家も社会生活や活動のためのお金はあるに越したことはない。かといって、芸術家は芸術を為すために活動するのであり、その逆ではない。壊れた橋があるから建設業者が修理する。結果報酬を得る。報酬がなければ橋を修理できないが、必要が先に立つ。これが原則。

 昨年驚いたのは、「補助金が通ったから実施」という考え方での芸術活動が珍しくないという事実だ。補助金自体は多くの産業に対して給付されており、そのこと自体は非難には当たらない。しかし、芸術の特性として、成果物の良否の判断が極めて主観的に成らざるを得ないことがある。客観的に判断できる芸術など逆に気持ち悪いのでそれでいいのだが、ここに補助金が絡むと話がややこしくなる。つまりこういうことだ。

 念の為に補筆。以下の話は芸術に明るい学芸員等又は専門施設には必ずしも全て当てはまらない。あくまで一般論である。

 多くの補助金の拠出主体となる行政には芸術の良否を判断する能力はない(これは単に分野違いということで無能と言っている訳ではない)し、すべきではない。そこで集客数、過去の実績、有名かどうかなどの外形的な情報での判断に頼らざるを得ない。要は書類審査だ。結局、書類作成や情報収集能力といった芸術本業以外の能力と手間を惜しむ必要のない事務処理能力の高い団体が補助金を掻っ攫っていくことになる。そして事業継続のための事業を繰り返し、補助金が廃止されたら次の補助金へと渡り歩くことになる。

 問題は、事務処理能力の低い芸術家はその恩恵に与れないこと。補助金を受けられたとしても、実施のための実施を繰り返し、よほどの「確信犯」でもない限り内容の空洞化を免れないこと、この二つだ。

 どの業界でも一定程度以上の規模になると財務管理が必要になりその部門が力を持つようになるのは仕方ない。しかしこれも程度物で、補助金収入が業務(使命)に優先するというような本末転倒はいただけない。

 目的と手段の混同は空洞化と腐敗を招く。そうでないと良いのだが。

 更に、補助金の金の出所は税金だ。固いことを言う気はないが、好みといった極めて私的な判断基準しかあり得ない芸術に税金を使うのは適切だろうか。あそこのお菓子が美味しい、店の雰囲気が良い、あの曲が好き、そういう私的なものは経済原理に任せるのが原則であり、多くの欠陥を抱える資本主義が持つ利点の一つ「お金による私的投票」が機能する場面である。

 余談だが、私の持論は、行政は行政にしかできない水道などの民生事業に特化したプロになるべきというものだ。あとは民間事業の足を引っ張らなければ良い。

 更に持論を言うと、芸術は有用性を声高に叫んではならない。無意味かもしれない、下手をすると害悪かも知れない、それでも止むに止まれずやってしまうのが芸術であり、むしろ役に立たないことが芸術家の矜持ではなかったか。行政や市民に媚びるなら少なくともその自覚を持って確信犯的に「えへへすんませんねえ、でもやる時はやるよ」と言う不穏な空気を纏っていて欲しい。

 一方、大学では「銭にならん学問は要らん」とばかりに、文学部や理系の基礎研究から科学研究費をひっぺがして産学協同分野とやらに回している。数学や哲学は、はっきり言って世捨て人のためのような純粋学問だが、これを疎かにするのは国家の将来に響く。彼らは美しさを希求する。誰よりも芸術家だ。世界を豊かにし、百年後にもしかして民生に役立つこともあるかも知れない(数学にはそういう事例が沢山ある)。そこには有用性を無視して無審査でざっくりとお金を投入して欲しい。さっきの話と矛盾するようだが、実は別の話。理由は割愛するが、アカデミズムの自律性を信頼するかどうかと言う論点とだけ述べておく。

 全てにおいて政治力が優先する社会。要領の良い者が良い思いをする社会。そんな社会は早晩滅びる。

 さて、ここで言いたかったことは、結局は芸術への補助金という観点から「外形的な情報」の流通(とそれに伴う空洞化)が世間を支配しつつあると言う危惧についてであった。この流れでもう一つ、昨年の状況から得られた知見がある。次に、それについて述べる。

「やってる感」の21世紀

 インターネットとは、その黎明期から付き合っている。初めてインターネットに触れたのは1990年代の大学。別の研究室に遊びに行ったら画面にヨーロッパの天気図。「ロンドンの天気を見ている」とのこと。そんなことができるのかと新鮮であった。当時はまだ米軍から大学にアルパネットが開放されたくらいの時期だったのだろう。

 時は過ぎ、携帯電話で人類は初めてテレパシーを手に入れ、iPhoneの発売から総合通信計算端末(スマートフォン)が世界中に行き渡った。全ての人にコンピュータが実装されたのだ。

 そこにSNSが乗っかった。「人類の歴史は貴族の特権の一般への開放の歴史である」と言う解釈を聞いたことがあるが、ここで一部メディア企業や作家などに独占されていた情報発信特権が開放された。テレパシーどころの話ではない。発信ですよ発信。これで人がとち狂わないわけがない。

 携帯電話もスマホもSNSも、手に入れたのは人類の歴史数百万年からすると体感ほんの3秒前くらいのことだ。一方で縄文時代から人体構造は殆ど変わっていないそうだ(聞き齧り)。精神構造もそう簡単には変わるまい。多分、当時から人間関係は人の悩みのトップに君臨し続けているのだろう。

 さて、インターネット(以下「ネット」)は、私にとって予想外の展開をもたらしている。というより、予想を完全に外した

 音楽に関して。我々の若い頃は「ジャケ買い」と言って、レコードやCDを気合いと雰囲気で選んで買って大事に聴いていたものだ。いや、ただ昔を懐かしんでいるのではない。もしその時代にネットがあったら、自分の好きな音楽をどんどん深掘りしていただろうに、そして、これからはメディアや特定の団体が推奨するものに囚われず個人個人が好きなものを探求するようになるだろう、つまりは需要が分散するだろう、と予想した。

 結局そうはなっていない。見事に外した。

 以前であれば発表の機会すら与えられなかった才能が発揮されると言う面もある。それはそれで素晴らしい。が、どちらかというと、やはりみんな流行に乗っかるのね、と言う様相を呈している。これも説明は不要だろう。先ほどの隠れた才能も、やはり流行に乗って消費されているし。要するに、道具立てが変わっても人間のやることは変わらないと言う事実に苦笑いというオチである。勿体無い。
 いや、それだけではない。むしろ人の本性を増幅しているのではないか、と言うのが本稿の主題である。

 そしてここから本題。

 現状、社会で支配的な位置を占めるのは(多分)SNSであり、旧メディアも未だ影響力を保持しているが相対的に低下傾向だ。

 SNSの普及により、岡田斗司夫が20世紀のうちに喝破した「社会の評価経済への移行」が顕著だ。現状では、「いいね!」の数が単なる自己実現と承認欲求の満足という範囲を超え、経済的利益に繋がっている。他人からの評価に一喜一憂するのは世の常だが、ここまでになったのは人類史上初めてだ。

 少し話は逸れるが、最近の動画広告について。続きが気になるところで「無料」「格安」「今なら特典付き」「続きは下の青いボタンをクリック」からメールアドレス入力、その後メール攻撃という海老で鯛を釣る方式が殆ど。マーケテイングの名の下で「共感」「ストーリーを語る」などの美辞麗句が並ぶ。これも詳しい説明は不要であろう。この件に関しては本論からやや外れるので別稿とするが、広告の意義そのもの、日本人として「物を売る」とはどうあるべきかを考えさせられる。個人的には、その売り方で儲けて死ぬ間際に後悔しないかと心配だ。

 さて、SNSは、一つに正義の増幅装置となっている。世間には一定数、正義の美旗の元ならば他人を攻撃しても構わないという人がいて、彼らにとって自己実現と承認欲求と(本人も気付かないうちに)攻撃欲が満たされるSNSは格好の舞台だ。

 彼らは、正義が相対的なものであること、時代と共に変わるもの、他人に押し付けるべきではないものであることが素で理解できない。自省も自制もない。むしろ相手に良かれと思って攻撃を行う。それが、戦前の「非国民」への攻撃や、彼らが「悪」と断ずるイジメや、第二次世界大戦後に世界各地で起こった大虐殺と構造や心性が同じであることに思い至らないようだ。

 この話は、人間の本性の増幅の一例として挙げたものだが、実は「芸術活動」についても同様のことが言える。

 SNSでは、活動に美辞麗句を加えるのが極めて容易である。本当かどうかは関係ない。そこで問われるのは作品や演奏そのものではなく、話題性(演奏者が実は医者とか)や、実績報告のような記念写真や、身内で称え合うコメント欄での評価であり、評価が実態と別個に独り歩きを始める。これを「やってる感」と名付けよう。

 一定の人は、その評価を見て評価するという屋上屋を重ねる的なこととなる。ここでも、作品そのものではなく、パッケージに過ぎない評価が、まるで金融資本のように自己増幅していく。

 この状況を見るに、やはり人間の赤裸々な欲望をブーストする機能がSNSに備わっている、だからこそ普及したのだと解釈しても無理はないであろう。

 このことの是非を問うつもりはない。どうにもならない。ただ、個人的には、前述の補助金の話も含め、この状況が支配的になればなるほど、盟友中丸大輔氏が述べたように、その流れから取り残された芸術家が「作品を発表する気が失せる」と言わざるを得ないような、終末的な様相を見せ始めることはよく理解できるのである。但し中丸氏は「せめて周りの数人に向けて」という抵抗を試みるらしい。なるほど、結論、これしかない。少なくとも当面は。

 つまり、昨年2022年は、平たく言うと各方面の「やってる感」の支配を傍観・観察していたのである。いやはや、21世紀前半、こんな時代になるとは。

終わりに

 共同経営する喫茶店の北隣は今川焼きの店。南隣はお食事兼飲み屋。どちらも古くからの名店。地元に根を下ろし、SNSなど全くしていないが、一定の良質な顧客を有し、安定して経営しているように見受けられる。

 SNSを批判しても不毛だ。所詮は道具に過ぎない。使い方次第であり、私自身もこうやって利用している。この駄文を発表するのも自己実現や他人への攻撃と言われても仕方ない。

 ただ、SNS疲れという言葉も聞かれるようになった昨今、やってる感競争、流行りの言葉で言い換えると「マウントの取り合い」は、そういう攻撃的な人だけの場所で勝手にやっていて欲しいというのが正直な思いだ。まあ、見なければいいと言われればその通りなのでできるだけ見ないようにしよう。

 そして、芸術家に限らず、職業人が(評価の評価みたいなものではなく)作品や仕事そのもので実直に評価され、適切な報酬を得る仕組みの世の中の方が気楽で良いなあ、両隣の店の在り方が実は本当なのでは、と思いつつ本稿を終えることにする。

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