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静かにして、ささやかなる革命を

どうやら今は、私にとっての「変化の時期」にあたるらしい。

露音(つゆね)は、夜明けの空を見上げ、ベランダで煙草を吹かしながらぼんやりとそんなことを考えた。

仕事を辞めた。なんとまぁ、些細じゃない出来事よ。

そもそも、限界だったのだ。

露音にとって職場は居心地こそよかったけれど、彼女の元来持つ気をまわしすぎる体質がとうとう体を蝕んだ。

仕事を辞めて、さっぱりしたかと聞かれれば、「否」と即座に答えてやろう。

後悔ばっかり後に立つ。先に立つなんて言葉は絶対にまやかしだ。

ぽわり。汚い煙を正常な空気の中に吐き出してやる。

いくらか満足感を覚えて、うし、とうなずきかけた瞬間。

「つーゆーねー」

後から、重力。いや、重み。

昨日から同棲し始めた雪(ゆき)が、後ろから露音を抱きしめたのだ。

反射的に、肘打ち。

軽くやったつもりなのに、筋肉質とは無縁のひょろい体を持つ雪の腹部には強烈な痛みとなる。

「ぐえぇっ」

「うざい」

「えーひどいー、ごほっ」

「傷心の女に抱き着くんじゃない、クズ」

わざとらしく体をくの字にして、(いやもしかしたら本気で痛いのかもしれないが)雪は涙に目を潤ませながら、女の子の様に端正な顔でこちらを見上げる。

身長こそ露音より高いのに、どうだ、この男女問わずときめかせる謎の美貌。

神様はこの男に一体何を与えたかったんだ、畜生。

「傷心って……露音が、そんなんで落ち込むわけないし」

「出会って二日の男が私の何を知ってるんだ一体」

そう。露音と雪は、まだ出会って二日しか経っていないのだ。

いろいろとやけくそになって家に上げてしまった自分も大概だが、雪の方も問題だろう。

こんな可愛げのない暴力女に一目惚れしたと付いて回るなんて。

「少なくとも、煙草が体に悪いことは知ってるよ。ほい」

「あ、こらっ!」

雪は、ひょいと露音の口から煙草を取り上げてぐしゃりと潰してしまう。

ああ、なんてもったいない。

「ああああ。ひどい、煙草高いのに」

「ひどくありませーん」

雪は楽しげに言い、本気で悲しんでいる露音の華奢な体を抱きしめる。

くすくすと、耳元で、笑い声。くすぐったい。

「露音はさ、どうして仕事、辞めちゃったの」

「……合わなかったから」

「嘘つけ。合わなかったんじゃなくて、やりたくなくなったんでしょ」

「……」

本当に、この男は私の何を知っているんだ。

いや、違う。

どうしてこの男は、そこまで露音の心を見透かしてしまうんだ。

まるで旧知の仲みたいに。まるで10年来の恋人みたいに。

だから、きっとこれも、オミトオシ。

案の定、男の軽やかな声は低められ、どこか仄暗く怪しい蠱惑さを醸し出す。

「……ねぇ、壊しちゃおっか」

ほらね、やっぱり。

「露音の望み通りにさ、嫌なこと、全部壊しちゃおっか、俺が」

それは、まるで太陽の引力のように、露音の心を揺り動かす。

露音は、自分がどこか狂っていることを知っている。

時々どころじゃない。ほぼ毎日、全部、何もかもを後腐れなく壊したい衝動に、駆られる。

この激情に従ってしまえば最後、露音は「常識」を欠落した異常者として社会から扱われるだろう。

男の口から放たれる、強い引力を持つ酷い誘惑。

露音は、自分の口元に煙草がないことをひどく恨んだ。

あれば、この男の綺麗な顔面に真っ赤な炎を突き出してやれたのに……。

「雪、それは、いけないことよ」

「うわぁ、すごい棒読みだね」

くすくす。悪魔が笑う。

くすくす。天使の顔をした悪魔が笑う。

天使でも、悪魔でもない露音は、雪を手で突っぱねた。

名前の通り白く透き通った指が、露音の体に絡まって、名残惜しげに落ちてゆく。

「それは、いけないこと。これは譲れないよ、雪」

雪は、日本人にしては青色の強い双眸を細める。

優しげな、極上の天使の微笑。

どうやら今度は、悪魔の顔で騙す気はないらしい。

「露音は、俺がどうしてついて回るのか、聞かないね」

「どうせはぐらかすでしょ。「未来から来た旦那」だとかなんとか」

「あ。言おうと思ってたのになー、それ」

「バッカみたい」

露音が顔を背ければ、それは許さないというように、雪の手が頬に添えられた。

強制的に、かち合う、視線。

「……俺はね、ビビッと来たよ。君とは運命共同体なんだってね。だから、露音が望むなら、本当に世界を壊してあげる」

「そんなもの、いらない。言ったでしょ、それは「いけないこと」なんだって」

露音は雪の手を振りほどく。何とかして。この絡みつくような熱情から離れたくて。

それに、もう一つ。

「譲ってやらないわよ、あんたには」

この、破壊衝動は、私だけのもの。

そして、これを制するのも、私だけの特権。

これが誇り。これがプライド。

たとえ何度仕事を変えようと。たとえ恋人を何度裏切ろうと。

猛獣のような、この感情を制圧する。

それこそ、露音が持つ、たった一つの芯となる、自信。

これこそ、露音が「露音」という人間でいられるという、自信。

言葉を聞いた途端、正体不明の魅力的な男は、今までで一番美しい顔で、微笑んだ。

「……さすが、露音。俺の女の子」

言いながら、そっと壊れ物に触れるような躊躇いがちな手で、雪は露音の手を両手で包み込んだ。

「……君が望むなら、なんだってしてあげる。君が「いけないこと」っていうのなら、そのままに。そんで、もう一つの願いも当ててあげようー」

ちらり、目元に浮かぶのは、悪戯っ子のような無垢な輝き。

「……当ててごらんなさいよ」

「じゃあ当てちゃうぞー。露音は、俺とずっといたいと思ってる」

「…………バッカじゃないの!」

「冗談じゃないよー、だって顔赤いじゃ、いってっ!」

手を振りぬき、半身を引き、その勢いでパンチをかます。

やはり筋肉質とは無縁の男の体は、素直にその衝撃を吸収。

ダメージは絶大だったようで、雪の長身は完全にくの字に折れ曲がった。

「て、照れ隠しにもほどがある……」

「黙れ自信過剰男!!」

さらに繰り出されそうな攻撃に、雪は大慌てで降参の意を示すように両手を挙げた。

「ふざけてないよ、俺は」

いうが早いか否か、真面目な顔で。

雪は、露音の手をつかむ。

真っ赤な露音の顔に、自身の端正な顔を近づけて。

「俺と一緒にいようよ、露音。世界を壊す代わりにさ、露音の周りの世界を俺が変えてあげる」

至極真面目に、彼は言う。

青がかった双眸に浮かぶのは、恋人に向けるには少し仄暗すぎる熱情。

けど、露音の腕をつかむ手に宿る熱と、声音に宿る恋慕は、どこをどう聞いても本物で。

露音は、その声に心を撃ち抜かれた気がした。

顔が赤くなるのを、止められない。

こくんと勝手にうなずく首を、止められない。

雪は、雪と名乗る真っ白い男は、その様子を見て安堵するように細い溜息を一つ。

「静かに、ささやかに、君から、つまらない世界を奪ってあげる」

そうやって、ひどく危うげな愛の革命を、愛する女の耳元で囁いた。

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