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memento mori

テレビのCMで この単語を聞いたのは今年のことでした
でも、僕の中でこの単語は づつと以前から 五木寛之 先生の書かれた小説の中で大切なワードとして登場していたことで、知っていました。
思えば、五木先生の、過去作品にはとても好きな作品が大物です。
例えば

◯にっぽん退屈党 ◯ガウディの夏 
そして、今回の話題に出た ◯レッスン この作品はたまらなく好きです。
そして、もう一作 短編集の表題にもなった ◯我が憎しみのイカロスです。

#アーネストヘミングウエイ  が大好きな僕自身は、勝手な解釈ですけれど、五木先生の作品には、ヘミングウエイが書いてくれない、親切さがあると感じるのです。

◯レッスンに登場する女性 ラリック のカーマスコット 

物語の内容は、読まれるのが良いと思うのでネタバレはやめておきます。

memento mori
wkiiki の引用では メメント・モリは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われる。とされています。

僕たちは、結局は死に至ります。
これは現実です。
けれど、それは、未来のことなので、過去に経験はしていません。
だから、ここにいる総ての人々が、過去に経験したことのない経験をいつかするということが、決定づけられていて、そこから逃れることはできないのです。思えばヘビーな話ですよね・・・・

でも、人生を生きる中で
僕個人の経験ですが、死を意識したことが幾度かあります。
1つ目は病気 2つ目は怪我 
それとは別に、人は死ぬということが日常の中に有るんだと思えたことがあるのです。これは怪我でも病気でもましてや事故でもない、普通に一般的な生活の中でともいえない。
それが、 #登山 なのです。

人は死ぬ それを如実に感じたのは
#北アルプス でした
整備された登山道、親切な山小屋の人々 多すぎるほどの登山者
その中で僕は死を意識しました。
それは、難所と言われる場所を通過する時でもなければ、天候の悪化により期限度が増した状況でのことでもなく、穏やかな晴天、風もなく、気温も安定しいて、尾根道に出る直下の極めて安全な道を歩いている時でした。
混んでいる登山道ではすれ違いも頻繁です。
下山途中のパーティーが道を譲ってくれて、山側壁に沿って谷側を空けてくれていました。すれ違える充分な広さを確保してくれてです。
挨拶をして、そのスペースを登ります。
その時です、ふと谷側を見たんです。
そこは未だ森林限界まで達しておらず、登山道の谷側にも低木が生えていました。その低木が、その道をより安全に見せてくれていて、あたかもガードレイルのように感じさせます。
すれ違いながら、一部低木がない場所に
同じ登山道、道の広さも勾配も変化なし、ただ登山道脇の低木が無いだけの場所、そこは、踏み外せば生き残れる筈がない場所。
万に一つ踏み外さないとはいえ、踏み外そうと思えば2歩で足りる道だから 
そんなところを、実は平気な顔して歩いていると思った途端に、ここはいつでも死ねる場所と実関したわけです。

人の命は それほど 盤石じゃない
むしろ、脆いと
登山は僕に伝えてくれました。

memento mori

燕山荘から大天井へ向けて
やがて日が昇る朝


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