見出し画像

資本主義に限界がある理由は、共産主義がどこかで破綻するのと同じという考察


主義って何


主義というものは所詮、後付けの名称である。
と、いきなり乱暴なことを言わせていただいた。
権力がやりたい政策をまとめて、原理原則を都合の良いように定義して、名称を付けることで、他の体制に対して差別化したもの、そんな程度に考えた方がいいと勝手に思ってしまう。
学者さんなら、これを論理的に体系立てて説明することが生業になり、これが高く評価されれば、金と地位と権力に繋がるから、これは彼らにとっては有難いものだろう。
人間は、お金や、地位や権力を欲するものだから。
その主義というものに、代表されるのが #資本主義  や #共産主義  なのだけれど、この水と油、白と黒、天と地 みたいな2つを掘り下げて考えてみると、そこには欲というものが如実に介在していた。

結論を先に言うのが欧米式だとすると、#起承転結  を重んじる日本では結論をもったいぶる、例えば、推理小説や恋愛小説ならば結論を前に出すわけにもいかんから、これはこれでも仕方ないけれど、人に何かを言いたい時には
結論は早めで明確にするのが良い。
なので・・

結論 : すでに本noteの題名に書いてました。

資本主義に限界がある理由は、共産主義がどこかで破綻するのと同じ

なぜか、それを今回のお話にします。
この結論を導いた解説を始めます。

人類は自らの欲望をコントールする術を持たない

人には欲望がある これを否定する人は多くは無いと思う。欲望を持つことが悪いわけではない、人は時として自らの欲望のためだけに行動することがあり、そのれが時には社会全体に貢献する場合もある。もちろん、逆に作用することも多いのも事実なのだけれど。
この欲望の存在無くしては人類の生活はあり得ないとさえ言える。

ここで資本主義を例に取って考えてみる。
資本主義、特に #自由資本主義 で考えると、経済の活動の主体は営利目的の個人的所有者によるところが大きく、これらは総てのものを商品化して、物財やサービスを生産し提供する。営利目的の個人的所有に代表されるのが民間企業であり、企業は労働力を労働者から購入し、商品を生産しするが、この労働者に支払った賃金やかかる費用を上回る価値のある商品を市場に流通させ利潤を得る。この経済活動の中においては、労働者は消費者としての側面も持ち商品を購入する、圧倒的な数を持つ労働者層が生産を担う一方で、生産された財を買い支え、ここに富の循環が生まれ、自由な競争と再生産により皆が一様に豊かになっていくという好循環がこの制度の理想だ。実際にこの制度がきちんと機能して来た時代もあった。適正(何を持って適正化は曖昧だけれど)に再分配が行われる社会であれば、自由な競争原理のもとで、企業経営者、資本家、労働者を含めた好循環の中で共栄できるという事になるわけだ。
しかしながら、次第に変化が訪れる、経営者は出来るだけ生産コストを押さえたいし、利益の多い商品を売りたいとする欲望を持つ。同時に、競合する企業との競争にも際しても、これに勝ち残り業界に絶対的な影響力を持ちたいと言うのもまた欲望である。こうなると、資本主義の弊害と言われる、所得格差、労働環境の悪化、失業、などが顕著に表れてくる。
それらを是正するために、企業の活動に対して、制限やルールを設けて対応する必要がでてくるわけだ、自由な活動を基盤にして成長したものを、国政によって一定の制約を設けることで、資本主義の弊害を修正しようと考え、
#修正資本主義  である。

修正資本主義にも弊害はある

#修正資本主義 により、資本主義の弊害を是正し、福祉の充実等の実現を目指し、社会政策や租税の賦課でもって所得格差を緩やかにすることができる。これで、総てが解決かと思えば、ここにもまた、人類の欲望が介在する。
それは、許認可、法整備、税収からの予算分配、これらの権限を有する者もまた欲望を持ち、得られた権限権利を自身の欲望を総て捨て去って公に尽くしてもらえればよいのだけれど、そうはいっても皆がそうなれるわけではない。、おちろん、公に尽くす側の彼らは資本家ではないし、大きな財産を持っている訳でもない、だから、一見して彼らに出来ることは極めて限定的だと考えがちだ。一方で彼らの持つ権限には絶大の力があることは事実で。これは何を意味するかと言えば、手段と目的の関係で説明すれば良い。資本家が、大な権力を握るために必要な財を欲するとするならば、この資本家が欲するものを、彼らは公にあたえられている存在だ、それほどまでに彼らの持つ力は大きい。よって、強大な権力を持っている実権者は、その権力をいかに使うかが最大の課題であり、実権者が公正な判断を曲げれば、いや、公正な判断の範囲であっても便宜を図れば、欲望により、それに見返りを求めるならば、腐敗した社会になるわけだ。さらに悪いことに、この権力者は常に管理する側であり、彼らを管理するシステムは無い、あるとしても機能しにくい。

資本主義における公の管理は、社会主義に近づいていくということは、社会主義にも修正資本主義と同様の弊害が

基本的に、資本主義の弊害を解消するためには、公の管理が不可欠となる。#民間主導 と言えば耳触りはよいけれど、あくまで民間主導としつつ、実は公のがんじがらめの管理があったりする。税負担が活動を圧迫するとともに、納税を強いられた側は、補助金、助成金、給付金でそれらを回収したいのも欲望だ。もはや、修正資本主義は社会主義に寄ってゆく、国家管理が強い資本主義と資本主義を一定容認した社会主義は制度上の違いこそあれ近しい。そうなれば権力者への権力の集中は、資本家と労働者の格差問題よりもむしろ、難しい課題を発生させるのではないだろうか。

共産主義ならば、解決できるのか


共産主義は資本主義の弊害を徹底して排除したところにあるひとつの形であり、社会主義をさらに発展させた形と言える。全ての財産を国家の管理のもと公平公正に再分配するとする社会主義的な考えから、総ての財産を国民総てで共有すると言うことであり、これが公正平等に機能すれば確かに資本主義の弊害を防ぐ事は可能となる筈だ。
革命を起こした人々は、支配階級に搾取され、過酷が日々を送る事に耐えかねて、立ち上がりった。悪しきものを正し、自分達の理想を具現化しようと戦った。勝ち取った後で、理想の社会シムテムと国家とを作り上げる。この行動は彼らの中の正義であったに違いない。でも、これも言い換えれば、悪しきを正しく変えたいと言う欲望がさせた事だと言える。理想が実現した時、そこには、搾取も支配もない、皆平等な社会が訪れただろうか。
比べるものがある中で、人よりも良い立場でありたいと願う欲望。一方で、皆平等なのだから競争に意味がないと悟り、何もしなくなったもの。平等の中の支配とは何か。
彼らは不平不満が爆発する時、大きなことが起こると知っている。
けれど、平等の中にあっても支配層は存在し、支配層は富と権力を手にしている。権力への、妬み 恨み は徐々に蓄積していく。
蓄積する負のエネルギーを押さえる術は、富を分け与えれば良いか はたして生産性の落ちた中で、分配できる富はあるのか。
仮に出来たとしても継続は困難になるだろう。
どんなに豊かでも豊かさの中で不満は募る
飴と鞭 徹底した保護と徹底した管理が必要になり、その共同体の中で権力は1極に集中してその中枢にあるものは常に、権力の強さとはうらはらに、恐れを抱えることになる。
恐れからくる、粛清に弾圧、それも歴史に照らせば明確だ。
全ては人の欲望によるもの。

欲望の連鎖と伝承を人類は否定できない

欲を求め続けた挙げ句に自分自身が欲望に潰されてしまう。
しかし、潰れた人間の後には、同じ欲望に満ちた者が後を継ぎ、そしてまた消えていく。
その繰り返しだ。
それを愚かと呼ぶのは容易い、けれど、彼らを愚かと詰ったところで、そうなりたい、そう有りたいと願う者が後を絶たないのだから修正は不可能だ。

見捨てられていく自国の労働者層

今まで書いてきた様に、旧来の社会でもあっても大きな問題となっていた、資本家や権力者の搾取からくる問題。現代社会においては問題はさらに深刻化している。例えば、巨額の富を生む産業が膨大な労働力を必要とするとは限らなくなったこと。もはや資本家は労働者に労働の提供を求めさえしない。労働力を必要とする産業であっても、生産拠点も消費地もグローバル化することにより、自国人の雇用に繋がらないことや、生身の人間の代わりをシステムが代用する時代にもなりつつある。こうなると自国の労働者は労働力の提供者ではなく、自社商品やサービスを購入してくれる消費者の側面しかなくなる。けれど、低所得で求人も減った彼らが、消費に積極的になるはずもなく、資本家は他国にマーケットを見出すだろう。

欲望と負の連鎖を断ち切る一つの手段

私腹を肥やす資本家や権力者がはびこる社会で、社会を正常に戻そうと願ったところで、それは難しい。仮に、制度や法律を整備したところで、前出のようにそこには利権が生まれてします。もはや、無力だと言える。
そうなった時、人類は何に頼れば、この負のスパイラルを断ち切れるだろうか。私が癌が得るのは、人間の心底にある欲望がこうさせたのだから、もう一方に人間がひめるであろう、良識 常識 良心 を欲望に対抗させるしかないのかと思う。
そして、一つだけ言えるものがある、それは誤解を恐れずに言えば、私が考えるのはこんなことだ。
アメリカは真に資本主義の代表国である。そのアメリカは本来なら欲望に紛れてどうもならなくなりそうなものだけれど、1980年代を超え、90年代のIT産業の成長、現在のeコマースやコンテンツビジネス等、目覚ましい成長が実現してきた。格差は限界に来ていると言われながらも、その限界は破綻せず意ギリギリのところで破綻せず継続している。彼の国には、どこか持ちこたえられる明確な一線がどこか有るような気がしてならないのだ。
この良識、常識、良心が、明確に働いていることで保たれているのだろう。
そして、この国の独立のアイデンティティと英雄は認められて英雄であるところ、これに大きく寄与したのは彼らにとって宗教の存在の大きさだったのではないかと考える。
自国を遠く離れ、新天地で我慢強く生き、アメリカを比類なき大国にしてきた日々の中で、彼らを支えたのは、彼らの神の存在ではなかったかと思うのである。
欲望を戒め、冷静にさせ、良心に訴える それが出来るのはいまのところ宗教くらいのものなかかもしれない。

Managing Human Desire(人類の欲望を管理する)


こうなると、世界の体制、情勢は それぞれの国や地域の宗教上の傾向や、教えの内容により 分類することが可能ではないか。この辺りを研究することで、資本主義の弊害も、共産主義の失敗も解決できるのではないだろうかと考える。それは、決して宗教で変えるという事ではなく、宗教がもたらした効果を、研究して活かす、新しい 取り組みということだ。

欲望と人間の関連は常に悩ましいという事
自分が今回疑問に思ったワードを検索してみた 出てくる出てくる
私も見てみよう読んでみようと思ったものです






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?