資本論考察 2019

仰々しいタイトルをつけてみた。
ハッシュタグを付けるなら #マルクス #資本論 #プロレタリアート #自由の国と必然の国  とでも書きたくなったので、そのまま書く。資本論、その草稿が残されたのが1865年ころとするならば、私が生まれる100年まえで、さらに現在はそれから55年の月日が経過しようとしている。にもかかわらず、人類は大した変化も見せないままに、うごめいているから始末に悪い。
こんな駄文が長くなっても万人に不意愉快なので、核心だけを記載して、この駄文は早々に書き終えることにしたい。

今にして感じることは、資本論とは人間そのものを言い当てた研究であり、かつシンプルに核心のみを捉えたものであり、これこそが特筆すべき内容だといえる。にもかかわらず、そこに理想としてとらえた一つの考察の方に重きが置かれた結果、共産主義活動にお墨付きを与えた形として解釈、利用された感が強く、これが資本論の持つ最も大切なものを見えにくくしたというのが私の考えだ。その上で、今少しもう少しだけ掘り下げる。
ブルジョワジーの欲望は無限であり、常に新たなプロレタリアートを世界に求め続けた。
同時に、プロレタリア達も、多くを学んだ結果プロレタリアートの中にブルジョワジーを生み出し、プロレタリアートの内部構造に新たな資本家と労働者の関係が構築された。そして、余剰価値を生むものが人間以外へ広がることで、現在のところプロレタリア革命の心配の無い、2進法のプロレタリアがヒューマンリソースを駆逐しだした。
創出価値の90%以上を余剰価値として資本家に提供できるテクノロジープロレタリア(造語)が生まれた。

これにより、現在の資本論には自由の国 必然の国を必要としない 新たな方向性が台頭することになる。

そして、この新たな形には、過去の資本家では、この恩恵を継承できないという、あまりにも大きな変化が生じた。ネオブルジョワジーのが出現したことであり、本来なら富の力に勝るものはなかったものが、町の若者が、ガレージでうみだしたもの巨額の富をもたらし、そのうみだしたものこそが、製品ではなく余剰価値の源泉となる。つまり、望んでも財力だけでは手に入らないブルジョワジーのジレンマを形成する。そして、もう一方の誤算 誤算と呼ぶべきか、正当な進化と呼ぶべきかは 読者に預ける

つまり、知識を身につけ努力したプロレタリアが、何を目指したか???

良きプロレタリアを目指したという という痛烈な皮肉だ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?