見出し画像

脳とは繋げる作業

内容的には、昨日からの連なりとして書いて行きます。

9/9メモ

ワン散歩中、自分の表現に気づく。

それを考えている時、「未到来の”未来”を先に決める」ということが、日常の動作の中で自然になされているじゃないか!と。

言葉で耳にした事はあると思う。関心を持たなければそれはスルー。そして”関心があること”は、とっかかりにしたとしてもその真意が掴めるかどうかは、自分の経験が追い付かないことには、表面上の理解に留まる。

また、世に出ているそれら言葉さえも、そんな経験を重ねたものとして言われている事は、現代においては非常に少ない様に感じている。(だから経験者のそれは非常に際立って見えてくる)

「(逆に言うと)そこを決めているから、結果を受容できる」

先に意志(意思)、その後に事象。

簡単に一行で書けてしまうけど、とても含蓄がある。

人の持つ”時間”の前提は、元から破綻しているか?”ある”という前提で言うならば。

人がその前提を壊した時、自らにかけた”洗脳”も解ける。

まずは、その様に書いておく。

・・・

”まずは、その様に書いておいた”んですね、私。

メモした事は一々憶えていないので、読み返した時に「そうだった」と確認ができる。

書きっ放しのメモなので、少し詳細を書いていきます。

まず今日こうして再び読むと、昨日の「脇道note」と所々は重なっている、無意識のことだけども。

”無意識に”(←ここの意味は自覚なくの意)上がってくるそれを書き留める「その時の”表現(ヒョーゲン)”」。後に、潜った所から感じたままに書いていった昨日の「その時のnote表現」。


詳細という表側で見ることが出来る言葉・表現はばらつくものの、”何をベースにしているか”という無意識部分のそれは”同じ”なので、二つは「その時湧いた事」として別日に書いているものの、”重なり”が見えてくる。

それが”フォーカス”という様な表現を良くしている部分になる。

フォーカスは、自分が意識してそうしている事もあるし、脳が余韻を抱えるように出力されたその重なりから逆に、「脳内にフォーカスしている事がある」と知ることが多々ある。


それは外に顕れた重なりを観ることで、「その様なことが起きている、アタマに」と自覚させられるというもの。全くこの一つの「私」という肉体の中で起きている事なのだけども、説明は必ず「こっちとそっち」ということになってしまう”みる・みられる”存在。

意識(無意識)の様子はここからはこの辺りにして、以下「未来を先に決めてしまう」ことに触れていきます。


時間というものがある・ない、という概念は私にはどの様でも良いことで、いつもの様に、あくまでも”この世界に観えたコト”から感じることを言葉にします。

まだ決まっていない、(時間的には)まだ来ていない事を先に決めてしまう―――。これは、ビジネスなどでは”計画”とする事ができて、考えやすい。計画した事によって、そこを目指すようになっていく。

意志で自分の”未来”を決める。

考え方が全く同じ。計画が明確であればあるほど、そこへ向かって進んで行く。

私たちは殆ど無意識という形で自分の意志を使うので、それをただ言語化されると、それに不慣れなせいもありまた、昨日触れたように”見えないもの”のその効力を怪しむ、疑う。


私も基本的スタンスはその入り口からなので、だからこそ、私自身が怪しいと思った事は自分が試すということでこの何年もやって来たので、自分の経験から観えた事が”答え”となっている。

心のことも脳内の探索もその中のできごと。この二つは特に関心が高かったので、今ものめり込んでいる。私の中ではその一環として「意識」というものがあり、それを知りたくて、そしてそれをどの様に使えば良いのかということも常に念頭にある。


その、意志・意識の持ち方は、深く沈んでしまった様な、ドツボにハマってしまった様な状態を経験した時から、自己流の「そこにいてみ?」がヒントになり、(不安から)あちこちに行きそうな状態になった時は「自分の中にしっかり留まる」として、暫くの間その様なことも意識に置いたりもした。

そんな過去を経て、自分の中の”状態”の変化によりまた自分の在り方、”ここからにおける意識の持ち方”というものを、自らの気づきに上がった焦点によって知ることになる。

そしてこれはまた、いつもの外の世界とのシンクロはきちんとあるので、冷静に外を見れば、過去から現在というゾーンでなく、現在から未来というゾーンを担当する”コーチング”の在り方がしっかりと届いていた。


外ではそちらの情報(コーチングのこと)が早かったと思う。だけどまだ私の中に浸透していなかったので深く考える事もなかったというのが本当の所。だけども、内外を自分のフィルターを外して観た時に、ゾーンの違いは実感している事、自分の行いからも理解できている事として、”認めるしかない”というもの。

一応ここまで、自分を「こうかな?」と疑いながらの「こういう事だな」に辿り着いている。だから、目に見えない意志を使って「未来を先に決める」という事にも抵抗が出ないという流れもあった。


これとはまた別に、過去から今までに何度もnoteにしている内容に、メモ帳からこのnoteに移していくことで、意識の流れを表し続け、そこには自覚するこの”私”が「全く気付かずにでも、何かにフォーカスしている状態がある」という事は書いてきたので、自分のこの流れを信頼しているという事もある。

私は自分が、占いの様な”予言”ができるとは思っていない。だけど、人は皆が自分に対してその様なことができると思っている。それは誰もが持つ意識、脳の働きにあるものだから、という風に考えている。

その様な意味でも、未来を決めてしまう事が”先”という事が書ける。言葉で書いてしまうと、考えてしまうと難しくも感じるのだけども、”先の設定”があってそこへ引っ張られていくという事は働きとして確かにある事なので。


少し、注意を書くなら、”試しにやってみる”それは、自分が信じることも、本心から考える事もしていないものは、(通常は)そこへ向かって行かないという事。意識が絡むことなので、表の浅い所で行うことのそれには殆ど意識など触れていないから。

そしてこの意志・意識を決めてしまう事によって、現実という現象側のできごとを見るようになる(捉えるようになる)という、「ココ」という場所を受け止めていく事になる。

「先」の止め方が緩ければ、現実の受け止めも流れやすくなる(ここに関連するメモ内容は後日に)。ここはやって行くほどに強固な”循環”が理解できるようになる。


これらの「継続」は言うは易しで、だからその中で続けていく人々は意志の力も胆力もある、付いて行くのだと思う。

そこを繋ぎ続けるのが仲間であったり、先を行く人々であったり、また苦しいと思う時も”楽しくなっちゃう”そんな諸々の工夫・考え方が大切なのだと思っている。

それは自分にとって癒しや喜びになれば良いのであって、”何か”が正しいわけではないと思っている。

力を使っていくからこそ、バカみたいにニマニマできる様な緩さで、慣れない力みを解放できるような楽しさを持つことは大切なバランスだと思う。力みでなく、「そもそも人はそんな事も出来る能力(脳力)を持っている」と機能を信頼し、力はこなしていく方に集めた方が良い。

私たちは、身体(脳)の力、機能を知らないだけ。

使えると分かれば、オートにするまで意志の力でサポートしながら「自分」というものから、”機能”へ任せていって良いのだと思っている。


と、「まずはその様に書いた」事によって、私がその意識を保とうとしていなくても、脳内ではソレに関することの尾は引いていたと思っている。それは今までメモ帳メモ⇆noteを散々繰り返して来てそう感じている事。

だから余計に、意識して「未到来の未来」を決めていい。そこからココという場所が始まるという時間が逆の考え方もある。

という事は、、
”時間”という事を、このアタマの中でどの様にかでも都合よく使う事ができる、という事。過去から→の一方向が当然のように考えるのは、私達の脳の処理に過ぎないのならば、”逆”という向きが発生しても良い。

情報を”繫げれば”流れとなって、それは経過を感じさせ時間となり、繋がらなければ、ただのコト。繫げる私たちの人生ヒストリー。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!