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脳内環境/バランス

10/20メモ

「状態があるから」という事が必ず関係していると言えるのは。

例えば夕寝後の寝起きなどに感じることというのは、結構冷めている目線がある事が多く(感じる)。まったく状態(脳内)というのは、同じなんかじゃない、と私は感じているから。

何かに浮かれる様に感じていたことを、同じように思い出して(意図的に)「そんな訳ないじゃん」と、自らを否定するのが普通に湧いてくる。この同じアタマの中からくり出されている訳で、”どちらが”もなく、”どちらも”が、「私」というものの中からでたもの。


自らを「冷ややかだな…」と感じる状態があることも事実としてあり、ホルモンによってそう感じさせられてしまうという事は、脳内含めての身体を整えることはある意味”条件”となってしまう。

分からないでただやるより、その素地を作ってやらなければ、労力ばかりがかかってしまう。そういう事を考えるのが、本来の”タイパ”というものだと思う。


だから、「状態があればそうなる」を多用してきた。頭の中は自分が”そうしようとして”そうなっているのではなくて、大体はそれ迄の脳内の”環境”によって、私達のコトが決まってしまっている。

その思考・選択・やる気・継続(する力)…。

すべて、意志一本では逆に、かなりの力(ある種の能力)が必要になるため、そういう意味での効率は考えたい。中身を掘っていけば、こういう細かい話になっていってしまう訳で、それらを「そこ」から伝えている人たちがいる。


私は、その細かさが自分の性分的に苦手なため、”大きな方”から少しずつ必要に応じて対処してきたということ。今まで(過去)より書くことが詳細になってきているのは、その様な理由。

細かいことがあまり好きでない性格故のこと(笑)

他の理由は。

人は始めから、アレコレの細かいことはまず嫌い、仮に”やろう”と決めても、その細かさゆえに続けることが困難になり、結局元に戻ってしまうことから。

今までの自分を、少しずつでも壊していく作業というのは、他者から言われてできる様なものではなく、本人の必要性、本気のスイッチが入った状態でないと、簡単にはできないということ。

そういう意味で、段階というのは必要なんだと思っている。

・・・

これね。ここ数日のnoteと関連したことと思い、ここへ移しているうちに、特に最後の方は、今週木曜日用に録った音声noteとその説明文の内容が「重なっている」ことが判った。

いつも書くように、メモしたら一々内容は憶えていないので、”同じことを書いている”とは思っていないのです。

これは何が言いたいかと言うと、”氣”になっている(氣にかかっている・氣にかけた)ものというのは、確実に(無意識に)多少のカタチを変えながらヒョーゲンしてくる、ということを感じます。

・・・ ・・・ ・・・

少し大きく話を伸ばしてシンクロ及び周辺話は、今回で終わりにします。(また体験から思うことがあった時に書きます)

結局、ココロが関係してきてしまう、ということ。

同期した状態、ただの「脳の機能」としての捉え方はもちろんあるのだけども、私が今までメインに書いている、(順番的には)自分が先に発信したことによる”何か”を目にするという流れではなく「逆の」パターン、こちらは体験上、”少ない”と感じているのだけども。

だけどこれは、本当に少ないとも言い切れず、その「外側」から後の自分が重なってしまったというケースは違う言い方をすると、まだそこに(その目にする外側)、「気づきがない」ということも含まれていると言えて、例えば自分の目線が→向きだったならば、←の向きで観ることに慣れていない、と言えるもの。


すべてがシンクロに結び付けて考える必要は全くないのだけども、きっと私たちの目線は、得意な方向・向きというものがある様に思うし、不得意な方面は通常は避けるので、余計に気づき難い。

だけど、そんな事も含んでいても良さそうだし、更に違う観方をしたら、それはそこに「(自分が)クセを持たない」だから気づかない、という事も言えるのかもしれない。

シンクロする場所。

私達が意識できる見える世界だけじゃなく、見えない世界でも確実にごく自然に起きています。

その無意識部分の振動が大きくなってくると、どちらからともなく”自然”というものとも同期することもあります。

なぜかこのタイミングでこの発言をしている。
よく分かんないけど、こんな事を言った。

私達の思考を超えた、意識できる範囲を超えてのシンクロはあるのだと、私は思っています。察知はそちらの方が遥かに速いものだから。

それは、私達が自覚できる範囲を超えているからこそ、言葉がつかずに「何となく」の感覚が作動するし、身体が記憶している事の全てを私たちは自分の思考を用いて言語化できるわけではないからです。

言語よりたくさんの情報を持っているのが、言葉に依らない表現部分。そこで感じる様々な事を、この現実世界にうまく持って来ることができれば、預言者めいた事も可能なのかもしれない(笑)

そんな事も楽しいゲームだと思うのだけども、どうも最近…今年に入って暫く感じているのは―――。


楽しく、ふわふわ軽く「遊びとして」この星を生きたいからこそ逆に、現実世界が非常に強く強調(浮き彫りに)されている様に感じている。

数年前より断然に、なぜか分からないけど「気軽」でない。

何の、どんな理由にせよ、必ず何かのプロセスであるという事は忘れずにいた方が良い。「重さ」を終着にしてしまったなら、こんなに生きにくい世界はない。

それだけ、人々が。

「明るい方を見たい」と心から感じているという事だ。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!