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”ただそれだけ”と”思い込む事”と。

昨日の音声noteでも少し触れているのだけども。

例えば”思考”という通常は→→→という向きでモノコトを見、考える時。それと違った向き←←←から戻すような辿り着き方というのは、「その様に”思い込んで”繋げた」という事は非常に多くあって、私も散々やってきているけども、それ以外のケースも決して”バカには出来ない”と感じる事も結構経験してきた(*^^*)


空間を大きく遡って”振り返る”という動作、頭の使い方自体が普段の思考の向きとは別の”見せ方”をするので、脳の働き方としてはある意味自然とも言える、と考えている。

その内容の”精度”を上げてくれるのが、再度の向き戻し、”→→→”の思考で、そこを繰り返すと、内容の精査はできることになる。

で、内容を分けたその上で、それをどの様に「使うか」を決めればよいので、それはそうだ・違うと一刀両断にしなくても良いものだと、私は感じている。


先に昨日の音声内容の方から例えると、「現実」だけで見れば、”ただそれだけだった”と言う流れのコトだった訳だけども、それを”経過した時点”から全てを振り返った時には、事実と異なるピックアップがなされる(できる)…、”ウラ側”を拾い慣れていると余計にその様に拾うことが可能という話になる。

現実世界とそれ以外の大きな”ウラ側”。

それを表で現わす時、ストーリーはやっぱり面白くなるものだと私は思っている。こうして言うからには、音声内容を話しながら少し笑っていた事に表されている様に、「少し滑稽な事を言ってるなぁ」と、耳に届く”内容”を精査する自分がいたからに他ならない(*^^*)

通常の脳の状態では、その様に「真正面からの受け取り方」をするのが常で、だから自分で話していてその情報の繋ぎ方に”滑稽”と評している。

・・・

もう1つを。

晩ご飯に、豚肉の生姜焼きをする予定があった。肉はあったので安心したせいか、夜になって大事な”生姜”の買い忘れに気づいて笑えた。

主人にはシンプルな焼き肉のタレで、私はおろしダレで…と予定を変更したのだけども、更に結果的に”塩コショウだけで焼く”という味付けに留まった。。。

ハマった。

私はタレの味が好きで、色々なタレを試して好きなタレに落ち着いているのだけども、塩コショウで食べるという事は殆どなくて、あまりのおいしさに何度も「おいしい」を連発した。

家では白黒の胡椒をブレンドしているのだけども、目につくのは当然”黒コショウ”、だった。


夜、noteを書きながら、”おやつ”を少し食べるのだけども、おせんべい(ひねり揚げ)を手にすると、買ったそれは”黒コショウ”とデカデカと書いてあった。

勿論、「食べよう」と思って買ってきた訳だけども、その時はその”文字”でなく「味」を思い出してそのイメージで選んで買ってきたので、目にして読んでいない”無意識”の選択だった。

(私は食べたいものは”イメージ”と気分が一致したものを選ぶ。イメージと気持ちがしっくりこない時は、その行為自体をキャンセルする事も多々ある)

そして、何か漬け物を買っておこうと一通り見た結果、初めて選んだキャベツとブロッコリーのそれを手にした・・・、食べたのは翌朝になったけども。

皿に移し替えたその空容器の底に溜まっていた”黒コショウ”。「これに胡椒?!」と驚き、原材料にコショウを確認した。

シンプルな浅漬けと想像して買ったのだけども、後でニンニク味の漬物と表に書かれた文字を読んだ(笑)好きだから無問題なのだけども。


全く無意識でも、ここまで重なってくると、私は「黒コショウ」を意識せざるを得なくなる。いや、それを無意識側から”押されている”から、表のこの意識が自覚していなくても「何気に選んでいる」ということを、認める割合が増えてくる。

突っぱねる方が無理がある、と感じる様な重なり具合というのは本当にある。それは主観だとしても、そちらに引かれていく様なこの意識側へのアプローチの仕方、とも言える。

私達が意識に上げている事が、全体のほんの一部なのだとしたら、自覚できなかったそれらの”部分”に関しては、否定する事が出来ない、と考えている。


そして、全くそんな事はない、そんな事を思っていない!と、「世界は自分の投影」ということを散々に否定してきた私が、どこかでは「そうなのかもしれない…」と長らく引っ掛け続けて観察してきた”自分”から、「そうだな…」になった経緯から「外側から自分の内側を観る」という事においては自然な解釈でもある。

何気に選んでいるからこそ、”無意識”であって、私の自覚に上がっていないだけの話であって。自分にスイッチが入っていれば、「起こる事その中から拾い、その流れは”必要”である」と捉える。


調べると、有り難い胡椒の効果は色々あるのだけども、脳内の「幸せホルモン」を増やす効果…、というものに注目した。

もう、この辺りからは”私”の期待を乗せた思考の範囲になってしまうのだけども、脳(無意識)は、小さな自分との調和がなされた後は最強の片割れなので、環境も情報も、あらゆる様々に必要なコト(モノ)は寄せてくれる。

だからそれを確認できた、こちらの自覚側の”私”は安心して事に当たれば良い、という繋がりになっている。


目で確認などできず、確証などもなく。
だけど確かに「そうだ」と自分がそう思い、続けた事によってこの”回路”は強まる。

それを「そう」と感じるかどうかは、自分自身がやってみない事には分からない。

転んだくらいはかすり傷♡

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追)

最後の、”確かに「そうだ」”と思う事は、先に決めてしまう事を意味していると思った。

決意して→行い というサイクルが強められる習慣、になっている様に思う。

また、「目で確認などできず、確証などもなく。」からは、分からなくても”やっている“事、その結果に手応えがあろうとなかろうとフィードバックは受ける事で「この感覚は…」という”感じ”を掴んで行ける、ということ。

それが、「思い込み」による新たな回路、組み替えになるんじゃないか、と仮にも思ってみる(*^^*)

・・・

【自分にスイッチが入っていれば、「起こる事その中から拾い、その流れは”必要”である」】

ただ普通にそのまま入れたこの文章だけども、この「追」部分の要約にもなっているように感じた。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!