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動くものに目が行く

初めに、昨日のnoteの詳細を加えておくと…。

”比較の対象”がそこにあるから、自然と受け取れる仕組みがあるのよね。

多分実際の「動き」だけを目にした時、それはただ「(分からないけど)スゴイ」という、動作のみの理解となるのだけど、それが昨日の内容などの前提となっているのは、「言葉」を使ったもの(話す・書く)との一致・ズレを言っているので、それぞれ別のこととの結びつき度合いという様なものを、”人”に観ることが出来るというもの。

また、直接に言うなら、表現となっているもの”自体”が、どこを現しているものか、どの説明であるかで大きくは頭か身体かの活発な場所は判るし、身体に因んだ「動きの話」が内容であれば、そもそもそこに映されている。

「何に注目して見よう」という事を意識しなくても、そこに焦点が行くことも本能的と思うし、ひっくり返して、その焦点が現れる「自分」をそこに観ることが出来る話でもある。

(以下へ、内容は続いていきます…)


推測があって照合へ流れる。
当たり外れより、その場(区間)でこなさなければ
予行練習は予行のまま。

・・・

人は頭が良いから、わざわざこの「頭の中へ情報を入力して、それを自分に理解させて出力する」という、グルンと回った思考をしているように思う。そして自分の中を通す回路を使うパターンに慣れている為、殆ど”理解する事”から入っていく。

チョッカン(私にはこの区別が明確でない為)で捉え続けてみる。くだらない、外したとしても何の問題も起きない事を。世の中には自分が知らなかったとしても、きちんと説明されている情報はたんまり存在しているのだから安心して試して良い。

時間を長くとれば、通常は考える事ができてしまう為、その域まで持って行かない所、その場で何かを決めてみるという事。以前にも書いた”スピード”が重視されている区間。ここにあっている間違っているを持ち込まない。それはその時点で思考のゾーンを使っている状態で、速い所で何も掴めていない状態。


”その場”の役割=機能は、それに任せてみるという考え。速いことが最大のメリットなので、間違いを含むことはきちんと想定…。それがあるから次の段階で”考えること”へ繋ぐことが出来る。

慎重な区間(思考ゾーン)でいくら”速く考える”事をしても、機能・役割(の中心)が違うので、合った機能の場所でそれを活用し、それをサポートする形での段構えで良く、この連携がスムースであれば問題ない。

寧ろ、チョッカンから出されたものが存在することで、「それを確かめる」行為に繋がる。ある種の”予測”は結果と自然と結ばれる。それによって、違っていた、こういう事もあるのか、これが考えられるという範囲に自然と拡げられるのだと思っている。それが”経過を追う”こと。

・・・

「動くものに目が行く」

確かに情報というものも、もの凄いスピードで動いているものだけど、やはりそこは現物というここでは”身体”と絡めた話をしているので、その動きを現している表現が見えるかという事が、自然な目線として残っている。

内側にあるもののヒョーゲン。

その中にあるものが、外側にきちんと現れる。言葉の世界にかなり深くまで入り込んでしまう私たちは、その空間から抜けることも難しく感じるほどに頭の中の情報と一体となってしまう。

生きものの基本は「動き」。すごい事や誇らしい事という内容の方でなく、自分の中でのズレの少なさ。外の何かに合わせていく以前に自分の中を調整して行くことが大切になる。


そしてやっぱり、私たちは人だから。
何かの目的をもってそこに向かって進んでいくのが人だから、その動きがそれともきちんと関わっているか、ということが大切なのだと思う。そうでないものはその場限りをくり返すエンドレス。

”遊び”の部分は大切なので、全てギチギチにそうする事は必要ないし、そうする事もできないけども、目的に向かっていくという事は、それに因んだ動きになっていなければ一向に近づけないという事になる。

私たちはすぐに、”違う世界”へ入り込んでしまう。目的に向かってレールの上を進んでいるはずが、いつの間にそのレールから逸脱し、それも気づかずに違うレールに切り替わったりしている。目に見えてはっきりと示された”レール”などどこにもなく、それは自分が強くそれを意識する状態がある事によって、その線が現れている。


私達の回路は、色々なものと繋がり重なっているから。

だから、例えば「動いている(活動している)」という事で、本来見据えていたコトへの意識から、”動いている”という動作に意識が隠れてしまい、そして「動いている」という事に自分自身が誤魔化されてしまう。更に自分がそれに気づかない状態がかなりある。だから途中に確認することでそこに意識を持たせる行いが多い。それくらい目的から離れてしまう事は簡単なこと。

”何か”に対して意識を持つ、強くするという事は、「具体的世界」では大切だろうと思う。だから、それを表す言葉が大量に流れているのだと思う。


私自身の”動物的な話”を中心に書いて行きたかったのだけど、途中から「具体的世界」側の話になってしまった。

そして終盤の「…人だから」からの部分では、意識を強調する書き方をする事になってしまったけども、それは私自身の在り方とは逆で、私は「強くソレを意識すること」をあまり書いた事がないと思う。”意識をしない”事を主とした形をとっているので。

今までの書き方では、「ソレ」というものが決まったら、「スイッチは一度で良い・走れ」という様なことを大体は書いているので、常に意識するという内容は、「具体的世界」での通常の在り方としてここで触れた。


”人として”のコトの進め方とすれば、これが通常と思うので、その様に書いてみました。恐らくその人の意識の置き方、在り方によってここは選択が変わると思う。私は意識すると「その様にならない(ことが多い)」と認識している為、意識したい時ほど、”意識から離す”選択をしている。

これは、「在る場所」が違うと逆を選択せざるを得ない、という様な簡易の表現をする事ができる。弱ければ強め、強ければ弱めるというバランスの話とも通ずると思う。

その感覚の部分から選択している。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!