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ピントの調節

「”そっち側”から捉える」
という向きの違いは確かに感じるし、そういう”向き”はこの頭の中に自然と湧くものなんだろうと思う。

ただその”向き”と表現するものは、人が自然と「流れている」と、なにかモノゴトの羅列をその様に見、それを一本線でみることを自然な処理としているから、「そう感じてしまう」「そう見えてしまう」のだろうと思う。

外の世界の、”モノゴト自体”には、何の意味も流れもない。人の目から見るそれらが、その「人」の頭により連なりとして見え(処理)、その流れを感じることで感じさせられてしまう”世界”。

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場所・位置というものが、この頭の中にドット(地点)で置かれる。その「地点」を替えて見える時、”あっちこっち”という表現が切り替えるごとに出る自然。

その”コト”というのは不動、動いていない。だけど自分の位置が変わる事でもそれは「相手が」変わったかのように見える…そんな思考のはなしに少しだけ触れる。(表現が変わるのは、見え方が違うため。つまり見え方の違う場所に行くと、表現が変わってしまう。使う言葉は同じものだとしても…)


よく話題にする”シンクロ”という状態をみて思っていた。

自分の世界の出来事と、全く無関係の外の世界との間で「一致」することが出てくる。

”外は別の世界”と思わずとも思っている自分、ウチソトとは分けるとなしに思考で分けた状態にある事が”普通”になっていて、だから自分の出来事という、”内側”の表現(ヒョーゲンでも)をただ行った、という事で終わっていく事も多い。

それが何か、特に分かりやすい出来事と重なる偶然として、外と重ねて認識する事はあるのだけども、殆どの場合が分けたまま外のコトを見るので気づかずに終わる。


シンクロしている事に気づくというのは、シンクロの状態にまで思考を持って行くという事も実際にはあると思っていて、またその”持って行く”状態から、自然と”そこの場”で解釈ができる、という事が具体から目線を確実に上げている状態になる為、少なからず抽象的なものの見方をされる状態がある。

物事を抽象的な捉え方をする事が当たり前の、モノの見方になると、ピントは殆どその地点(次元)のため、そう捉えることが当然になる”必然”。わざわざ括るように見なくても、脳のピントがそこに合うようになる。

それでも物事を捉える(解釈する)ことは、程よく丁度いい感じが良いと私は思っていて、何でも抽象的に捉えればいいと言うわけでなく、それでは現実的に解釈は不足し、逆にその事だけでは、全く広がりを持つことができない。


上下にピントを上げ下げしなければ、その場面で”丁度いい”解釈はできないので、解釈するには結局、どちらもが大切になるのだと思っている。

シンクロする事が大事なのではなくて、その様に捉えることのできるピント調節ということが、”必然のシンクロ”では言えるのだろうと思う。

「そっち側」とした今回の対象は、”思考自体”というそのものから見たらそう言えるだろう、という事を書いてみた。自分が何か、外には現れていない事をこの頭の中に描かれるままに、それをクルクルあちこちから見て表現していることは、本当に共通の言葉では完全な不足になる。

表現している事は、その時々に、特に焦点を当てている事だから。また冒頭の、”一本線で見える”こと自体が、何かの「線上」に乗っているわけで、その乗り物側が、自覚していない”自分”に意識されている”無意識”にあるもの。

その動作をしてしまう、したくなるという衝動によって自然を装い選択をする人のハタラキ。

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この一週間は、随分と「感覚」の刺激を欲したように思う。音を楽しむだけでなく、香りを積極的に使っていた。筋肉痛だったのか動かした身体のあちこちに痛みを感じていたから。

普段動かさない所で、それが筋肉痛なのかどうかも自分で分からないという(笑)その硬さともとれる状態の緩和を目的としてアロマオイルを利用していた。頭の中が疲れているかもしれない事ともつなげて万能的なものを。

週の後半の眠りは、夕寝を含めて深く、身体が休む感じがした。その時は当然、自分の頭の中を”覗く”状態にない。

顕れていることは結果であり、状態のヒント。

「そこ」という所から、自分の内側へ向かわせる向きのクセ付けは続く…。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!