見出し画像

表を替えるための背景

それでは参りましょ!

昨日のnoteを書き終えた後の感想はすぐに出ていたから、メモにも残し、一部を(昨朝)ポストしたのだけど。

《私のイメージとの”一致(感)”でしかない‐‐‐納得感》

外に現れているもの=表現されたものは、あとは読み手の受け取り場によって解釈される。どこの位置で捉えるかは、無意識の得意・クセ、また意図的にその世界へ入って行くなど、消化(吸収)の仕方はそれぞれ。私が自分のイメージと一致せずに納得しなかろうが、(昨日のnoteで)その様に捉える方もあったと思う。(メモより)

以下、私のイメージとの差を少なくしていきます。

・・・

書いているうちに、”内側”へ偏り(焦点が集まりすぎた感じ)、外との重ねが甘くなった。書いているその状態、私の意識の状態・在り方によって、出てくる言葉が自然に変わってしまうと感じる。

ただ、私の意識の状態、そのイメージなので、あくまでもそことの差を私自身が感じてしまう事、そしてそれによって使う言葉が変わってしまったことを、”修正”したいと思ってもう一度、とした。

私の中にイメージ=私の中に広げた空間が違かった、というだけのことに拘りたい時がある(笑)そんなくだらない遊びも良いだろう…。

意味あって前置きしているのだけども、ここにハマり過ぎるとまたその世界を広げすぎかねない為、この辺で。


昨日は自分という一人の”中”を中心にした話になってしまって、「個人」における範囲の印象が私には残った。”私と世界”つまり、私と自分以外の社会という空間をメインに書いていこうと思っていた。(だから「広げた空間、そのイメージと違う」、と補足した)

自分の中のことだから合う、そして「外側の世界とも一致する」。

考え方はまったく同じことなので、その空間が自分の中に広がっているか、ということ。その空間が自分の中で広がりを持たなければ、そこから”見えてくる”景色は愚か、言葉が出ようもない。

自分の中で枠を外す、カタチを弱めることは、外の世界との接地が多くなるという事。言いたいことはたったこれだけなのだけど、これが現実には難しいからたまの一致が”偶然”と驚く。私は散々そこに驚いてきた、シンクロ。


その中で「こういう事が言えるな…」という事が少しずつ増えて、驚きから「そうなって当然」という落ちついた解釈が増えた。それでもやはり”タイミング”というものの見方に関しては、自分の感覚(気づき)を通さない入り方が多く、”不思議”とは思う。

昨日は”私”の詳細を結果的に書いていったことで、今回の”前置き”という形にもなる。そういう理屈の”私”なのだから、そこから見る外の世界・社会は、そのフィルターを通して見ていることが殆どだ、ということ。

これを緩めた状態にすることで、”私”からの目線ではなく、「その”状態”で捉える」ことが多くなり、イコール”一致の見方”でコトを捉えるという事になる。解釈はそこから”私”に落とされる、という一般的順序とは逆をとる。


「合う」のが当然。合うようにしか捉えられない。という「そこ」での捉え方で見るようになる、”あまり分離がなされていないような”状態。分けた結果の塊「この私」の、分ける前の状態で私が世界にある、という状態。

理屈的にはそう説明できるのだけど、それがなかなか、その様にはできないから、言葉の説明の多いこの次元に意識は通常はあるわけで、勝手にそこから抜け出すことはない。(だから人は言葉の意味、その内容を理解できる、のだけども)

抽象的な見方をするというのは、意味からでなく状態からものを捉えるということを感じている。「抽象的」という言葉に具体的な意味は付けられているものの、それは”意味”の中に収まってしまっていて、空間を広げた抽象的な場にいない。

頭の中に空間が広がっていくから、外のその世界にもそれを重ねて見ることができる。現実の世界にそれが”見えない”という事は、自分に内側の空間がまだ広がっていない、広げられる空間があるという事になる。


また、内側に既にその空間があっても、やはり現実と分けている”思考”があれば、そこは分断されて”見えない”。どうしても”私”のカタチを壊す・崩す・弱めるなどでしか現れてこない空間がある。

更に、様々が解消されていても、知っているとそれをやる事とは大きな差があり、その”一致”が見えてくるまでにまた幾度となくそれをくり返し続け、たくさんの誤りも集めながら、自分の中での選り分けを行い、現実では必要となる「区別」がなされるように思う。

外側の世界は、この内側の顕れ。

これは、つくづく感じてきた。それでもやりつくしていない、まだ見えていない、気づきにすら上がらないのだから”あるんだろう”と思っている。

外の事象、起きていることは、まったく関係ないから、自分にそれが見えない、まだ顕在とならない、自分のタイミングがあるのだと思う。タイミングが確実に”合う”理由は、その時の、自分の無意識にフォーカスしているものはジワリと続いていることを、”私”が気づかない・掴めていないだけだから。

偶然は必然に変わるラインがあると、以前に触れたと思う。今も感覚的にそう感じている。すべてに適用できなかったとしても、当てはめられる事からはめて埋めなければ、必然にもひっくり返らない。

どこで”だ~ん”するかを決めてしまうのは”私”。

少しでも距離を延ばし、その結果を手に入れることでまた何かが自分へ還る。

不思議なことは、それに近づかないといつまでも不思議なまま。

・・・ ・・・ ・・・

自分のイメージに近づけるとした通り、頭の中のその時の”画”に、言葉を付けただけの違い。くだらない拘りだと分かっていながら、それを外に出したいというヒョーゲン。湧く(生まれた)ものは、外に出ていきたいのだと思う。

その外へ向かっているものを閉じ込めるのも、このカタチを持つ”私”でもあるので、強すぎずでも抑えるべきコトは抑えてもらって、私の中のバランス、両方を効かせた状態で書いているものと思う。

はっきりと具体的に書ける、ぼんやりとした背景のように書く。出力はどの様でも良いと私は思っている。

ただその出たものをまた入力する(自分へ取り込む)ことで、それへの対応という姿勢が生まれる循環・学習。自分の中で回し、外も経由の編み込み。そんな事を思っている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!