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いつも違う景色だね

何にしても。
私達は「待つ」という事が苦手。

それはきっと”脳力”のかなり必要なことなんだと思います。


別の事が頭にあって下書きしていたこの「視線」から、今回の気づきは繋げて行けそうです…多分(笑)

・・・

夜寝る前。
ベッドの上でクリームを手と足にしっかり塗り込み、そして横になって”挨拶”をしてやっと一日が終わるルーティン。

手にクリームを塗り込んでいる時、アタマの中を視ていた。

『そうか…』

その時はその”映像”を流して視ているに過ぎず、それに対してまた脳内で”言葉”をつけ、今度はそれを自分に把握させる”気づき”としていた様に思う。もちろんこれ自体も「それを振り返って」この様に書いている。

その時はメモすることなく、でも”忘れないだろう(憶えていられる)”という事を自分に確認しながら眠りに就いた。

話しは一旦脇道へ。

この”メモ”は、就寝時に寝室へ持って行く小さな手帳。夢や寝る前・寝起きなどのタイミングのものを書き留めるモノとして、普段の「メモ帳」と機能を分けている。

そしてこの小さなメモ帳は、”夏時間”の様な夜が短時間睡眠になる時は殆ど使うことがないのは分かっている為、この数か月は寝室に持って行くこともなかった。

今回、頭上にあれば、一応は書いたかもしれない。だけど、「見え方」としてかなりハッキリしていたので、”忘れない”という思いがあった。

夏時間はヌボータイムもそこまでのんびりせずに、やはり朝からスピードを上げている部分もあり、そこでも「ふと湧く」というやんわりとした時間(空間)の中には、いつもよりは居られない、そんな夏の時間を過ごしていた。


ゆっくりとした時間が戻ると、流れるモノ(見え方)も静かにツラツラ~としたものになる。今朝(昨朝)は、ベッドに横になったまま眺めるレースのカーテンに「ソレ」をみて、そこから脳内のピントというのか、視点の切り替えを何度もくり返して、「”その様”に見る事ができるか」を確認していた。

その様に。

レースの柄が「丸いドット」でない事は知っていて、だけど視力の悪い私に今見えているのは、丸いドットが広がるレースのカーテンで。目を細めてしっかり確認すると、「うん、そうだね。」小さな四角がたくさんの、隙間を空けて規則正しく並んでいるそれを確認した・・・、そして再び緩ませて広がった丸いドット柄…。

その見え方の調整を何度も行ってから、いつもの景色を眺めた。


いつもと変わらない緑。
今日も全く違う緑たち。

今日飛んでいるこの鳥たちの声がいつもと違う、雨の中の樹々の動きがいつもと違う。匂いが違う…いつも、いつも。

一度たりとも”いつも”なんてない景色に、自分のいつもから眺める静かな時間がとれる。やっぱり、心地良かった。


本線へ。

気にする・”氣”になっている時というのは。
例外なく、”目が近い”状態だという事。対象への距離が奥行き、幅ともに「ココ」から非常に近い近視眼。

のめり込んでいる時というのはどうしても必要になる目線でもある、と同時にやはりそこへのフォーカスが強くなりすぎると、もうそれしか見えなくなるのでギュッとした状態になる。

それが、自分で意図的にしているフォーカスならば暈すこともまた意図して可能なため、特に気にする事もないのだけども、大体殆どの場合が「のめり込んだ”その時”」というのは、無意識に行う事なので、緩めることがとても難しくなる…ドツボにハマるというような事になる。

いや、ハマったって抜けるから大丈夫なんだけども(笑)

何かにハマってしまったという事があった訳じゃなくて、クリームを塗り込んでいる時に、ただ脳内に流れた自分の行いとそこに映った世間(漠然と外の世界の意)とを視て(観て)、「そうか…」という感触が上がって来たもの。

自分が当たり前に行う事、特に具体的にこなしているコトというのは、そこと確実にリンクしているため、意識するとなしに確実に意識されたフォーカス状態があると思う。

それが、その時からズレて、夜の寝る前の、特に”縛りの期間”から解放されたそのタイミングで”ホワ~”っとしていたから、映されたものをゆるく観ることができた、という事だと思う。

つまり・・・、身体が緩んでいる状態。
その時、思考もゆるむので違う目線、見方が出てくるのだと思う。

・・・

終えて気づいた事の一つに触れて、今回は一先ず終わりにします。

”縛りの期間”と書いた。

期間終了で”終わり”となる事で、「解放された」と感じるって、一体これは何でしょうか。

身体が拘束されている訳でもないし、誰かにやらされている訳でもない、まったくの”フリー”、いつもと何も変わっていないはずの状態。

違うのは唯一、「この期間は繁忙月」と、自分の中の情報を意識したという事だけ。これがとても効力を発揮している事が分かります。

そして昔私は、これの”採用”自体に軽く悩んだ事もあります。「自分にわざわざ強制をかけているのではないか」と。自分の枠(思い込み)をとる事が目的にあったため、少し悩んだ訳です。で、現にこうして解放で何かが緩むのであれば、”強制された状態”があったのだと、それは事実として認めるわけです。

だけどその時と違うのはここから。

その幾らかの縛り、「期限付きの」強制の中で動くという体験・時間が解けた時の開放感と縛られている事のキツさと。そして期限があるからその期間は「どんな形でも意識してやりたい(頑張りたい)」という、意欲が維持されるのだと思った。

それはもちろん、どうしても無理な状態は自分で分かるのだから、その時は様子を見たり、休息を多めに入れたりの調整を挟んで、それでもまた”強制”の中に戻っていく。

そうした意図的な負荷を少しかける体験が、自分の”踏ん張り”を強固なものに少しずつでも固めていくように感じた。でないと、ユルユル~っと、何も考えずにただ甘い方へ流れていく事は、これまた自分がよく分かっているから。


あの時は、ソレで納得して選択・実行した。そしてその後に同じことへの見方は変わり、選択・実行してもまた気づきを得られる。

そんな風に、仮にあの頃と”同じ”を採用したとしても、この自分の在り方・視野に変化が出ていれば、まったく違う景色として目に映るのではないか。

いつもの緑が、全く違う緑たちだった様に。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!