見出し画像

居場所が変わると…

「その時」に感じたままの、アレコレを考えないままの下書きに肉付けしていきます。


例えばさ、

「本当は、私は「女性」で在りたかったんじゃないか」

とか。

「”できる人”になりたかったんじゃないか」

とか。

この日は本当に色んな面がよく観えてきて、何気なく目にした何気ない「言葉」の陰に、自分の影が見えた様に湧いてきた。

そんな事の可能性を否定できない、と思うと増々、「この世はフェイクだ」と、思わざるを得なかった。

この表に見える世界を観ているのは「私」だからだ。

・・・

感情は一時的な反射、というものだけども、自分の居場所が一時的にでも変わると、それは見事に”見せ方”を変えられてしまう。

そこに自分の心構えや、”ちょっと待って”などの甘っちょろい事など言わせてもらえる隙もなく、ただそこに立たされ、それを感じさせられる。

「繫げて」しまえばまた別の展開へ広げられるのだけど、これはこの筋でこのまま書いていく。

・・・

「転んでもただでは起きないね(^-^)」

もう昔の事で何についての事かは記憶にないけど、若い頃、女性の上司に言われた。

多分、ソレに意味が付いたのはずっとずっと後の人生になってなんだと思う。人生も後半、という今の地点から見ると、このベースはやはり幼い頃に身に付けてしまったもの、という風に感じる。


両親にも、祖父母にも誰にもそんな事を強制されていない。だけどそこにある”環境”という見えない枠の中を生きる時、柔らかいこの身は、その枠の中でカタチを沿わすように成長する。

その”方向”を決める種は、受け継いでいるものという風に見えて、とすると”運命”と言える部分が少なからず出てくる様に思う。

・・・

4/14メモ/対峙

そして悲しくも分かった…。
みんなの世界(私の勝手に思う周り)が凄すぎて、自分の劣等感をここで拾ってる。

情けなさと悔しさと。
クソッ!と思う気持ちがある。
堂々と現れやがった劣等感。

「ライバルであり、仲良くなるのはお前だ」


「居場所」が違うと、拾うものが全く異なってくるのは今までにも触れて来ているのだけども、それでもいつもより少し深い所に”居る”時、感じさせられるものは普段では到底掴めないモノになる。だから自分でも驚く。

普段の状態(居場所)ならば、「上がって来た」という表に居て拾った様な表現で良いのだけども、上記のメモ時、涙が溢れたので少し潜っていた、と思った。

でなけりゃこんなにストレートな思いと共に涙は出てこない。


こういう普段は感じない、全く感じる事のない状態が、この同じ「私」という人の中から現れる訳で、表側の意識が緩んでしまった状態でないと、隠れた部分の存在を見つける事はできない。

ここでは”疲労”した事により、他の部分が観え易くなった、感じ易かったという風に、色んな映像で脳内にイメージは湧くのだけども、それを全部書いていると全くまとまらなくなるので、既出の表現で取りあえず。

・・・

いつもの様にただ、世の中に「言葉」が流れ続けていただけ。

それを目にしたタイミングとか、いつもならばそんな見方の話をする事が多いのだけども、本当に何の変哲もないその言葉たちが、私の「影」にそっと触れていったように思う。

「こんな風に思ってたの(?)、私」

表側の、自覚する意識で、ほんの軽くはその類の事を掴んだ事もあったとは思う。

だけどそれは本当に表面で「そうかもね~」なんて軽く分かったように撫でているだけで、やっぱりどこか「普通」に憧れている自分もいた事は確かだったし、「もっと女性っぽかったらな…」と思う事だってあった。

結局いつも、自分の目指したゴールの手前だったじゃないか…などの、「できなかった事」「閉じ込めてきた想い」を深い所で掴んだ、という風に観えた。


頑張って事を成していく事は、私は場面では必要と思っている。

だけどその中には、自分の劣等感を「隠す為」の行いもあると思う。

劣等感はあるのも普通と思うけども、隠すのではなく純粋に前進の力に変える事が健全だと思う。

負けず嫌いな性格ならば、「クソッ!」と思えるけども、そうでない場合、その劣等感に引きずり込まれてバランスを崩してしまう事だってある。

人は良い所は認めやすいけど、イヤな所はとことん見たくないもの。だけど、自分の中に見つけたものはやっぱり「自分」なんだよね。だから表に出てこなかった”自分”を、前進の力の元にする。

”過去”は、十分なアドバンテージなんだと思う。


(とは言え。)

「憧れ」など抱く事がなかったら、私はもしかしたらお淑やかオシトヤカで艶っぽく、とっても優しい女性…、だったかもしれない。さぞモテただろう(笑)(いや、若い頃モテたからもういいのだけど。オイ、ダレカ。ツッコンデヤレ!)

子供の私から見た母は、強くてカッコよくて、ほんとに大好きだった。それは「あーなる!」なんて決心する事なく、私の目指したい在り方になったのだと思っている。


例えばいわゆる、”優しい”しっとりとした母だったなら、私はきっとそれに憧れた、「そう目指した」のだと思う。

教育などされなくても、目の前に”在り方”があれば、十分に吸収していくのが子供の学習なのだと思う。そしてそれは、何かを直接”教える”よりもとても強力に刷り込まれてしまうもの。


それは無言の”教育”であって、”運命”とも言えるもの。

自分ではどうしようもできない「縁」で、ココに生まれ落ちたのだから、それは”アドバンテージ”だった、と思える所まで可能性を伸ばしてみたい。

過去は変わらない。

記憶の結び変えを自分でしていくのだ。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!