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現実世界はキビシイ(?)

現実的な話なので、厳しいかもしれないです。

だけど、やっている人にとっては「そんなの当然」というレベルの事を書いています。

そして話として「具体的なこと」を少し出しているけども、これは気付きのきっかけになっているものだから表現しているのであって、主眼はコトでなく、”人というものの状態”の話です。


ここだね、ポイントは。


言葉で”全て”が表されていると、私たちはどこかで思っていて、それ以外の本当の「全て」が見えていない。(もちろん全てなんか見えっこないけども)

①が隠れた前提になっているため、言葉部分の”全て”で判断し、そこから行動・実行を選択する。この実行の中には一番選択としては好ましくない、「やらなくていい」がある。そしてこの行動・実行部分を②として。


実動部分は、”それ以外の「全て」”の所に殆どがあるもので、既にここに大きな差がある。更にこの”殆どがあるもの”とした、ここがポイント/分かれ目だろうと感じた―――以下へ。


あるコミュニティへの参加で、始めは”自分”丸出しで、ただ楽しみを追って、何かを求めて行動をしていった。コトが進む段々と、”自分”の思うような進捗とは異なり、楽しみ、何かを求めるウキウキ感さえどこかへ消えた。・・・、それは「私」にとってマイナスだったか?

いやいやいや。

この違いでしょう。凡人とプロの本気、やる人(やった人)とやらない人との差は。そんな「差」がとても明らかに見えた。

例外なく、誰もにとってが様々なそのポジションにおいて「思うような運びではない」というその時、そこの踏ん張り方が全く違う。そこを行動するか否か。これだけだと感じたし、本当のそれ以外の「全て」部分の実動の多さ、この違い。


”それ”という対象へのフォーカスは外すことなく、とにかく言葉で表されているコトより圧倒的に(それに関わる)動いている部分が多いこと。

全てが言葉で表されているという無意識の前提があれば、言葉にされていない殆どの重要な部分が見えていないため、「行動しなくてもいい」というそれが暗に示された形となる。

そして、実動の部分は必ず後にハッキリと言葉となってくるため、やはり”その時の動き”は、観ていない限り掴めない。


もう一段。ここから鋭く入るので。

ワクワクした夢を。何かにぶつかった時、ワクワクの妄想のままに終わらせてしまうのが”大衆”。そこを必ず現実側へ落とし込み、形にしていく精神力を持つのが成功者。この違いがいつも私たちを分ける。

成功者を崇め、羨み、凄い人として存在させるのは、妄想状態から現実化への行動を手放してしまった者たちによる自らによるもの。この区間の”移動”の差。

ワクワク、ドキドキ、楽しみな気持ちは差がなくこれはみな同じ。そこから、現実世界への結晶化へ力を集めて動いていく、この”動き”の差がそのまま「力の差」となっている。

抱いた妄想は、本当に現実側でカタチにできない事なのか?

アタマの中を飛び出して、実動することでその手応えをしっかり感じる体験があると良いと思った。

・・・ ・・・ ・・・

私が書く事において、具体的な事象というのはあまり意味はなく、しかしコトを説明する為には必要なケースがあるため、その理由から今回は書いていて、この背景側の、どの人間でも行うコト全般の話として捉えているものです。

ただ気づきを得るためには、”事象”を観なければならず、その事象という具体的な話というのが、「この現実世界のこと」のため、該当する者があるかもしれないというだけの事。特定のコミュニティに限った話ではなく、「人」の行う選択の話。

ここからは”人の行い”という意識を強めて更に書いて行きます。

私自身がその様にして来たから、今(ある)コトからそれが見えてくる訳で、昔、例えば「○○しなくていい」と言われれば(書かれていれば)、ケースによってはやらなくて良いんだと、解釈した。

「言葉が全て」だと思ってしまっている。

言葉で示されているのはごく一部であって、この平面に見える一部分であったり、ある一定区間の内のほんのひと区間だったりが具体的にされているに過ぎないのに、”他の部分”を目にすることなく、表現されたそれだけを”信じ”た。そうだと思い込んだ・・・、小さな小さな一部が、さも全体を指し示していると、無意識に捉えていた。


だけど、人の行動を見れば分かるように、人は話す(文字にされる)事よりも、圧倒的に動作という「動き」の方が多いわけで、そこにそもそも表現されていない”実動”が共になされている訳で、「やっていること」の方が全くもって多い、という事がわかる。

さらに補足すると、「すべては行動に現れる」という表現がよくなされている通り、ここにその人の「意識」が丸々ヒョーゲンされている訳で、ここを見れば言葉との相違(一致)が一目という事は明確なこと。

この”動き方”が対象との関わり方、重ね具合などとを観た時に、「内容が吟味できる」わけで、動いている事の全てが対象に注いでいるとも限らないと同時に、傍からは一見その様に見えなくても、「当人の中では繋げて見えている動作」かもしれないし、それは観る側のこちらの視野が狭ければ、到底理解ができないもの。


実際に盗めるかどうかは別として、「見て盗む(学ぶ)」という事は、そういう事が多分に含まれているもので、ここには大した言葉などは必要としていない。

そうした事を考えると、人だから便利に言語を使ってやり取りをする様になった一方で、やはり別の側面もきちんと現れているわけで。

どちらかでなく、どちらもが場合によっては必要なものだという事を、改めて「意識に上げる」という事が、必要なのかもしれない、と少しばかり思った。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!